清爽なキッス-12
「……せっかく元気出させてあげようと思ったのに」
口を尖らせて呟く。梓は、自分の声が純一の耳に届く事無く消えてしまったと思っていた。だが。
「――梓、ホントにありがとう」
聞こえていたらしい。
純一の野球で鍛えられた洞察力は、梓の不満そうな表情を見逃さなかった。梓の耳元に唇を近づけて、優しく囁く。もちろん爽快感溢れる微笑も忘れずに。
そして、“先程の御返し”とばかりに純一も、梓の頬に、優しく、最上級の愛情を乗せた口付けをした。梓は一瞬だけ目を大きく円くしたものの、すぐさま満面の笑みを愛する男に返した。
「ふふ、どういたしまして!」
「いや、まだ礼を言うのは早いな。もう少し俺にも何かさせてくれよ」
「何かって?」
梓の頭上に疑問符が並ぶ。
「例えば……、この後何処か行く、とかは?」
純一は左腕に着けている時計を見ながら言った。その機械的な表示板は、純一が見た瞬間、午後2時56分17秒から18秒に変わった。純一は自転車を押しながら、梓は徒歩であると雖も、2人が家に着くのは遅くても3時半にはなろう。そのまま何もしないでいるのは惜しい。
「え? だって、純一疲れているんじゃないの?」
梓は怪訝な顔をしながら言う。自分も遊びに行きたい気持ちはあったが、それを口にしてしまうと、純一のことだから無理をしかねない。そう思ったのだ。
「大丈夫、試合は少ししか出てないからそんなに疲れてないし。それに――」
突然言葉を切る。そして純一は、梓の顔をじっと見つめた。
「それに?」
「“さっき”ので、疲れなんてすっかり吹き飛んださ」
純一は莞爾として笑い、梓もそれに応える。暫し、2人の間の時は薄桃色のベールに包まれながら、ゆっくりと流れていった。そして2人は荷物を自転車のバスケットに押し込んで、自転車に跨り颯爽と球場を後にした。もっと2人だけの時間を楽しみたい、そう思う気持ちが、純一が漕ぐ自転車のペダルに加速度をつけていった。
「――見せ付けてくれるな」
「ホントにね」
梓と純一の後方10メートル地点。隼斗と真奈は、球場の周りにある垣根に隠れ、2人を“監視”していたのだった。
「それにしても、変わったよな」
隼斗が感慨深そうにボソリと言う。
「まさか路上でキスしちゃうなんてね」
真奈も同調する。
「周りの見る目もお構いなし、ってか」
そうして呆れ気味にため息をつく隼斗と真奈。実はキスしていた2人よりも垣根の影からコソコソ何かを見ていた此方の2人の方が見られていた、ということは隼斗と真奈は気づく由も無い。
「まあ、しょうがないんじゃないか? あれだけ純一が打って守って活躍したからな」
「うん、そだね……」
更に言えば、隼斗は、真奈が自分を、梓が純一を見ている時のような眼差しで見つめていることに気付くことも出来なかった。
早苗月も始まったばかり。吹き抜ける清爽な風は、春に別離を告げ、まだ見ぬ夏の到来を心待ちにする。