侵入者-1
蒸し暑い夏の夜だった。
残業帰りのリナは家路を急いでいた。暗い住宅地は人通りも少なく、歩道の傍らには『変質者に注意』などと書かれた看板が立っていたりして、リナはここを通るたびに不安な気持ちになる。
嫌な看板を横目で見送りながら、リナはショルダーバッグを肩に掛け直した。早く帰ろう――足早に歩くと、静かな住宅街にヒールの音だけがカツカツと響く。
一ヵ月程前になるだろうか。差出人も消印もない手紙が自宅のポストに投函されていた。メッセージはたった一言だけ。
『もうすぐ会いに行くよ』
黒いボールペンの文字は男が書いたものに見えた。罫線から歪にはみ出してひどくバランスが悪く、どことなく幼稚さのようなものも感じさせた。差出人に心当たりなどなく、気味が悪いのでその手紙はすぐに丸めて捨ててしまったのだが、それ以来リナはいつも誰かに見張られているような気がして落ち着かない日々を送っていた。
警察に相談しようと考えなかったわけではない。だが、たった一通の手紙のためにと思うと気が引けた。もしかしたら相談したところでまともに取り合ってもらえないかもしれない、とも思った。
(きっとただの悪戯だ。また何かおかしなことが起きたら、その時こそは警察に行こう)
だが、再び手紙が届くことはなかった。
やっとアパートが見えてきた頃には、リナの額には汗が浮かんでいた。髪が項に張りついて気持ちが悪い。
玄関までの距離がやけに長く感じてつい小走りになりながら、バッグの中のキーホルダーを探る。焦る手つきで鍵を差し込み、カチャリと音が聞こえたらドアの中に滑り込む。灯りを点けドアチェーンを掛けたところで、ようやく安堵の息をつくことができた。
その瞬間、携帯電話の着信音が鳴った。一瞬身体をビクリと震わせた後、リナは思わず苦笑を浮かべる。緊張のせいで全身が強張っていたのだろう。
バッグの中で震える携帯を取り出すと、画面には未登録の携帯番号が表示されている。普段から知らない番号には出ないようにしているリナは、鳴り続ける携帯をバッグへと戻して靴を脱いだ。
室内にはまだ昼間の熱気が残り、リナの全身に纏わりついてくる。淀んだ空気を入れ替えようと窓を開けると、生温い風が僅かにカーテンを揺らした。
携帯はなかなか鳴り止まなかった。まだテレビも点いていない静かな部屋に無機質な着信音が響く。随分としつこく鳴り続けるので、リナはもう一度携帯を手に取る。
(誰だろう……もしかしたら知ってる人からなのかな)
番号が変わったことを知らせようと、知人の誰かが掛けてきたのかも知れない。もしそうならばこのままほったらかしにするのも申し訳ない。
出ようか、それとも無視しようか……迷っているうちに電話は切れた。
(大事な用事ならまた掛けてくるよね……)
リナは着替えもせずに身体をソファーに沈める。ここ最近の猛暑のせいで食欲はあまりなく、疲労も相まって身体が怠い。シャワーを浴びたら今日は早く寝よう、そう思いながらも中々立ち上がることができない。ソファーに身体を預けてぼんやりしていたらそのまま眠ってしまいそうだ。
その時、再び携帯電話が鳴り出した。さっきと同じ番号だった。
きっと知り合いに違いない――リナは思い切って通話ボタンを押す。
「……はい。もしもし……」
「……」
予想に反して、電話の向こうの相手は無言だった。
「もしもし……?」
不審に思いながらも呼びかけると、少しの沈黙の後、ボソボソと低い声が聞こえた。
「リナちゃん……お帰り……」
背中がゾクリとした。知らない男の声だった。
「……どちらさまですか……?」
質問には答えず、男はゆっくりとリナに語りかける。
「今日は帰りが遅かったね……残業だったの……?」
「えっ……?」
男が何を言っているのかリナは理解できない。悪戯電話だろうか。でも、ただの悪戯電話でわざわざ二回も掛けてくるものか。
「今日の格好可愛いね……ピンクがよく似合ってるよ……」
(誰かに見られてる……?!)
リナは慌てて立ち上がり、開け放っていた窓をピシャリと閉める。慌ただしく鍵を掛け、カーテンをピッタリと引いた。
「誰ですか……? 悪戯はやめて下さい……!」
気丈に振る舞おうにも、動揺して声が震えてしまう。そんなリナを気にも留めない様子で、電話の主はボソボソとしゃべり続けた。
「やっぱり髪は下ろしてる方が好きだなぁ……」
相手はリナの服装や髪型まで知っている。ぞわりと悪寒が背中を這い上がった。やはり気のせいではなかった。リナは何者かにずっと監視されていたのだ。