水脈-1
気がつかなかった。自分の孤独がとても欲しがっている男の存在に……。それが南欧で出会った、あの青年だというのだろうか。アケミは、今でもあの青年の夢を見るときがある。たとえ、どんな男に抱かれていたとしても。そして、碧い地中海の彼方まで水脈(みお)を引きずるような孤独があったとしても……。
ひたひたと満ちてくる海面に浸った古代遺跡……。廃墟となったすり鉢状の円形劇場の底は、大理石の小さな丸い舞台だけがゆったりと波立つ海面から突き出している。そこで濡れた白い裸体を横たえた赤い髪の青年は、まるで深海から這い上がってきた人魚のように神秘的な色合いを溜めていた。
地中海の潮の香りを含んだ真昼の光は、大理石の彫塑のような微妙な翳りで彼の身体の輪郭を浮かび上がらせ、甘い薔薇色に染めていた。彼の肉体は少女の裸身のような瑞々しいまろやかさに包まれ、うっすらと蒼味を帯びた細身のからだは無垢な清浄さを孕みながら奥深い香りを漂わせていた。しなやかな首筋、仄かな翳りのある胸肉から下半身、そして眩しい光芒を放ち、美しくそそり立つペニス……。
誰もいない円形劇場には風と波の音だけが微かに聞こえている。
アケミは青年の姿を円形劇場の階段上になった誰もいない観客席の中ほどからじっと見ていた。風が奏でる音は、やがて彼女の見えない孤独を煽(あお)り、身をよじるような渇いた叫びで咽喉を突き上げ、無言の悲痛な嗚咽となり、やがて幻聴となってこだましていく。
アケミは感じていた……孤独な彼の肉体を、孤独な自分が欲望していることを。彼が目の前に存在していることだけで、彼女は烈しい焦燥と飢餓感に苦痛を感じ、それはやがて欲情の高揚となって浄化していった……。
煌びやかな街のネオンがひっそりと灯りはじめ、慕色の蒼さに中に散りばめられた光の残滓のあいだを冷ややかな風が流れていく。
夕闇が街を覆い消すように包み始めた頃、いつもの路地裏のホテルで、あの男を待ちながら開け放った窓辺に頬杖をついて街を眺めることが、アケミはいつから好きになったのだろうか。乾いた風には、化粧をほどこした頬肌も、眉も、睫毛も、そして顔の皺も染みも、きっと透けて見えるに違いないと、彼女はふと思った。
今年、四十八歳になったアケミは通り過ぎていった過去の記憶をたぐり寄せようとするが、記憶は暗い翳りに阻まれ、風がもたらした乾いた肌に感じるまでに至らなかった。自分はこれまでどんな男を愛してきたのか、その記憶はなかった……それが死んだ夫の記憶だとしても。
ただ、五年ほど前、南欧を旅していたときに古代円形劇場の遺跡で出会った青年の姿だけが浮かんでくる。アケミの中で彼の記憶はいつも渇きに変わり、渇きは彼女の孤独でもあった。孤独は彼女の心に朧(おぼろ)に溶け、内部の膿(うみ)を吐き出すように喘ぎ、涙を零す。それは胸を刺すような痛みでありながら眩しく切ない。
待っている男の名前は、K…。彼は六十歳を過ぎた妻のいる男だった。ここは、アケミとふたりだけの特別な場所として男が用意した場所だった。彼にとってアケミは友人でも、恋人でもなく、ましてや愛人でもなく、おそらく情婦という言葉だけがよく似合った。ただ、男が欲望を充たすだけの女。アケミは、自分が彼の情婦であることに抵抗はなかった。情婦だからこそ彼の欲望によって自分の孤独が深められ、癒され、色あいを濃くされる。
色褪せていく軀(からだ)、慕色の兆しを溜めた肌、薫(くん)じられる空洞、もの音が絶えた子宮……そこに、ひたひたと満ちてくる孤独。いったい、いつからだろうか、自分の中の孤独が万華鏡のような色彩を奏でることに怯えながらも愛おしく感じるようになったのは。
K…と初めて出会ったのは三年前だった。取引先の銀行の専務だった彼に夜のバーに誘われた。
なぜ、自分なのかアケミは理解できなかった。とびきり美人というわけでもなく、若くもない自分なのか。
アケミの孤独は肉体を無防備にした。唇に感じる彼の気配に、胸元に注がれる彼の視線に、膝の上に置かれた彼の手に、そして肌を刺すように聞こえてくる彼の声に。どうしてこんなに彼に寛容になれるのか不思議だった。それは孤独を癒す《彼の命令》だった。
彼は、《そういう女》としてアケミに《命令》した。そして、彼が黒い鞄の中に潜ませた鞭や縄は、彼が《そういう男》であることを匂わせ、彼はアケミに対して欲望の匂いを漂わせた。