水脈-8
――― 南欧で見た、あの青年がそこにいたことが偶然であっても、彼の視線を敏感に感じとったアケミが彼を受け入れたのは必然だった。
K…を見送ったあと、重い軀(からだ)を引きずるように夜の街をさまよった。どこにも帰る場所がないように思えた。人混みを避けて並木通りの坂の途中にあるバーに入ったときだった。
まばらな客の中でカウンターのスツールにひとりでグラスを傾けている若い男があの円形劇場にいた青年であることに気がつくのに時間はかからなかった。
アケミは青年の姿に引き寄せられるように彼の傍に座った……まるでずっと自分を待っていた恋人に寄り添うように。
艶やかな赤い髪と鮮やかな碧い水晶のような瞳をした青年は、あのときと変わってはいなかった。どちらかというと控えめな清楚なポロシャツ姿の彼の身のこなしは、どこか不思議な優雅さを湛えていた。
どこかでお会いしたような気がします。いや、ぼくの夢の中にあなたがずっといたような……。
そう言った彼は、美しい唇の端のどこかに限りなく澄みきった悲哀を漂わせていた。その悲哀がとても美しく感じられたとき、アケミは甘い感傷で彼の唇をなぞったような気がした。
わたしも、あなたとどこかで会ったような気がするわ。もしかしたらあなたと同じ夢で。
彼のポロシャツの胸元から白い肌がのぞいている。手首の先の指爪が優雅な真珠色に輝いているのを見たとき、アケミは不意に息苦しい欲望を感じた。
ユフキと言います……彼は簡単な自己紹介をした。イタリアの工芸学校で宝石細工の勉強をしていること、今は学校の休暇を利用して一時帰国していることを物静かに語った。
彼にまちがいなかった。南欧の円形劇場の遺跡ですべてを脱ぎ捨てた全裸の青年。そしていつのまにか彼女の視界から消えていった彼……。ふと気がついたあのとき、アケミはひとりきりで、遺跡の中にたたずみ、化石のような風に吹かれていた。青年を見たことが現実なのか夢だったのか定かでなかった。その彼が目の前にいた。
まっすぐにアケミを見つめる彼の碧い瞳が心臓の鼓動を撫でた。とても潤んでいる彼の瑞々しい声は、なぜか彼女の肌に突き立てられた彼の綺麗な指爪を思わせた。いや、なぜか彼の傍にいるだけで、アケミの心の芯が薔薇の棘で刺されたような心地よい痛みに酔い始めていた。そして甘い痛みはアケミをもっと孤独した。
ぼくたちは同じ夢を見ていたのかもしれませんね。もし夢の中のあなたが、ぼくの恋人だったらとても素敵だと思います。彼は私の耳たぶに甘い息を吹きかけるように囁いた。
アケミはバーテンダーが差し出したマティーニに片手を添えた。
言葉は自然に流れた。わたしも、二十歳若かったらあなたの恋人になれたと思うわ、と言うと彼は小さく笑った。そして膝に置かれたアケミの片方の手を握った。
なめらかな指が彼女の渇きを癒すように絡んだ。醒めた繊細な指の気配は、とても愛らしくアケミの指のあいだに絡み、交錯した。彼女はあの円形劇場で見た彼の肉体の中心に触れたような気がしたが、なぜか、これまで感じたこともない羞恥心に襲われ、とっさに彼の手を振りほどいた。アケミは微かに強ばった指先で煙草を挟んで火をつけた。そのとき店に入ってきたカップルの客が隣の席に座った……。
ユフキと出会ってからアケミは無為に流れていく時間に埋もれた。
彼に会いたかった。眼を閉じると遠い海の彼方から、波に押し流されるように彼のからだが迫ってくる。薔薇色に染まった彼のからだは、なめらかな肌を艶々と耀かせながらアケミの時間をかじり始める。 あの時間が止まった円形劇場で、もう一度、碧い海と空に抱かれた彼のからだを彼女は夢中で追い求めたかった。
閉じた瞼の中でアケミの体が彼を奥深く吸い込もうとしている。彼の唇、耳朶、首筋、腋下…。そして、薄い胸からくびれた腰へと続く眩暈のするような澄みきったからだの地平線から奏でられる、ゆるやかな音楽がアケミの肌の隅々をどこまでも優しく擽(くすぐ)った。あのときの彼の記憶が、まるで夢のかけらのようにアケミのからだの中に散りばめられていく。
窓からいつも空だけを見ていた。天空にひろがった青空はアケミを吸い込み、夜空は彼女を風化させていく。ユフキに会いたいという気持ちとK…に取り残されたという孤独が物憂く混ざり合った。
白々しい星の光は蝶になり、蜜液を滴らせ、月はレクイエムを奏でた。まるでアケミの孤独を慰めるように。いつのまにか彼女の中で蝶が羽ばたいていた。きっと襞奥の空洞で蠢いていた孤独が蝶に羽化し、育ったのに違いなかった。蝶は空洞に漂う澱んだ空気を切るように舞っていた。でも、いずれ死に絶え、虚ろな蛇の化石になる……そう思った。