水脈-13
…………
あのときユフキはアケミを抱きながら、あの古代遺跡の円形劇場の話をした。なぜなら、その場所はふたりが唯一、夢を見ることができる場所だったから。
彼はアケミに円形劇場のことを淡々と語った。円形劇場のすり鉢の底にあった小さな大理石の舞台。気がつかなかったが、台の四隅には鉄環が埋め込まれてあった。ちょうど人が手足を広げて石の上で仰向けに磔にできるように。彼は、そこが裸に剥かれて床に仰臥させられた古代の奴隷たちが鉄環に鎖で拘束され、拷問と処刑によって観客に見世物にされた場所だと言った。
その舞台でぼくの恋人は、ぼくに抱かれながら三年前に死にました。ぼくが殺したのです……と彼は言った。彼が恋人の話をしたのは初めてだった。
ぼくたちは愛し合っていました。でも彼女には養父母が決めた婚約者がいたのです。ぼくは彼女を婚約者に奪われたくなかった。奪われないために彼女を殺したのかもしれません。ぼくは、奴隷たちと同じように石の舞台に鎖で恋人を拘束しました。そして恋人は、ぼくとセックスをしているあいだに死んだのです。なぜだかわかりますか。舞台のまわりの潮は満ちはじめるのです。ぼくと恋人がセックスを行っているあいだに海がどんどん満ち、彼女の体は徐々に海面に覆われる。やがて顔すら海水に浸ってしまう。彼女はぼくと交わりながらも、迫ってくる波に苦悶し、唇を海面に浮いた魚のように突き出し、烈しく喘がせ、やがて海面に少しずつ顔を覆われ、息の根を止められたのです。ぼくは彼女の苦しむ姿を瞳の中に刻みつけました。そして、そのとき初めて彼女の中に射精したのです。ぼくは彼女を失ったことで、彼女を永遠にぼくだけのものにしたと思っています。それは彼女が望んでいたことです……。
アケミはK…を待っていた。ホテルの窓から眺めた黄昏に包まれた街の灯りが、寂寞とした渇いた孤独を吸い込んでいく。
あの夜、アケミは自分がK…のものであることをこれまで以上に思い知らされた。彼の淫蕩な声で心を嬲られ、彼の冷酷な仕打ちによって嫌というほど肉体を痛めつけられた。肌に亀裂が刻みつけられ、体はうねり、のたうち、波打ち、きりきりとした苦痛によって絞り尽くされた。
虐げられる肉体が自分のものでないような気がした。まるで徐々に首を絞められて深海に底に沈められるような感覚は、孤独を解き放ち、肉襞を烈しく震わせる恍惚とした高みへと彼女を導いた。
そのとき、アケミは確かにユフキのことを想い描いていた。痛めつけられ、汚され、醜くくされる四十八歳の体は、逆に肉体から離れた心を甘美に目覚めさせたような気がした……アケミの孤独とユフキに対する愛を。
何かが終わり、何かが始まろうとしていた。いつまで自分はK…を待ち続けるのだろうか。もしかしたらK…は、もう待つ必要のない男なのかもしれないとアケミは思った。
眼を閉じるとユフキの声が聞こえてきそうだった。そして焼きつけるような太陽の光だと思っていたものは、ユフキの視線だった。彼の強い眼差しはアケミを酩酊させた。まるで彼に操られるように石の舞台に仰向けにされたアケミは、鉄環に鎖で手首と足首を拘束されていた。南欧の金色に輝く太陽に染め上げられた彼女の体を、彼の瞳は限りなく透明な無垢の残酷さを湛えて見つめていた。
漣(さざなみ)がアケミの足元に寄せて引き、音は耳元まで迫ってくる。裸の彼がアケミの身体の上に覆いかぶさる。柔らかくも堅くもなく、しなやかで、滑らかで、真珠色に輝く彼の体はどんな部分も美しく、瑞々しく、彼の瞳と同じように残酷さに満ちあふれていた。
潮は少しずつ満ちていく。アケミの身体の表面はすでに半分ほど海面に覆われていた。海面を自在に這う、白く、細く、長い、神聖な海蛇のような彼のペニスがアケミの体の中に忍び込んでくる。柔らかい粘膜の部分を溶かし、肉襞の奥に挿入されたものは彼女の孤独を愛おしく、美しく煌めかせる。
アケミの頬に海水がピチャピチャと音をたて始める。腰を微かに蠕動させながら彼はじっと彼女の顔を見つめていた。まるで死んだ彼の恋人を慕うように。
窓の外は、いつのまにか漆黒の闇に包まれ、ぽつぽつと降り出した雨が、窓ガラスに涙のような水滴をつけていた。
閉じた瞼(まぶた)に南欧の荒涼とした遺跡となった円形劇場が浮かんでくる。ユフキがアケミを待っているような気がした。石の舞台に彼女を縛りつけ、死んだ彼の恋人のように彼女を抱くために……もしかしたら彼自身の孤独とアケミの孤独を抱くために。
アケミの孤独は、地中海の海原で、光の射さない海のとても深いところをくぐり抜け、深海の彼方にひと筋の水脈(みお)となり、永遠に消えていくことができそうな気がした。
アケミはペンを手にすると、南欧に行くこと、そして、ここに二度と戻ってくることがないことを書き記し、その紙切れをテーブルに置くと部屋をあとにした……。