水脈-10
――― 会いたかった……無性にユフキが欲しかった。
夢の中で、アケミは殺風景な遺跡の中にいた。奇怪な植物や樹木が蛇のように絡みあい、遺跡に這っている。白日夢の蒼い光がそれらの憧憬を不思議な迷路のように浮かびあがらせている。
アケミはその風景の中に入っていった。石灰石の遺跡のあいだから懐かしい記憶が、忘却に彩られ、音楽を奏でると、アケミは孤独になれた。生まれたままの姿で胸いっぱい化石となった風景を吸い込んだ。
だれもいないと思っていた……。アケミは振り向いた。光と色彩のない、不気味な視線が彼女の体を包んだ。アケミは誰かに見られているのを感じた。その視線は、彼女の孤独を鏡に映しだした。そして光にまぶされた鏡は純粋な苦痛となった。アケミはその光から逃れなければならなかった。まわりの憧憬がいつのまにか彼女を覆う鏡になる。
鏡の中に誰かがいた。K…だった。彼がアケミを捕え、虐げ、鞭を打ち、処刑しようとしているような気がした。アケミはそこから逃げることはできなかった。粘りつく生あたたかい空気に、腐った卵のような硫黄の臭いが混ざり、咽喉いっぱいに拡がり、息が止りそうになる。遺跡の石の穴から無数の幼虫が迫ってくる。いや、それは精液を滴らせた夥しいペニスの群れだった。
鏡にまぶしい光が射しこんできたとき、彼女は地面から石を拾いあげ、鏡に投げつけた。空が裂けて透明なガラスの蒼穹がのぞくような音がした。鏡は粉々に砕けた。砕け散る音は、孤独の水脈が途絶える音だった。その音の中にユフキが待っているような気がした。いつのまにかアケミは荒れ野の遺跡の奥をさまよい歩いていた。その音に導かれるように……。
まさかユフキからふたたび連絡があるとは思わなかった。
彼にドライブに誘われたのは、K…にあの醜い中年の男とふたたび会う命令をされた日だった。
今度は、本気であんたを痛めつけて、たっぷり楽しませてもらうぜ……と中年の男は電話でそう囁いた。
あのとき男に汚されたものがいつまでも体の奥にわだかまり続けていた。汚されたと思うことで自分の孤独が濃さを増したような気がした。それは実体のない感覚であり、何も孕むことのない、つかみどころのない感覚だった。
アケミは男との約束を破り、ユフキと一緒に出かけた。海岸線を走る車の窓からとても長い時間、黄昏だけを見ていた。こうしてユフキといっしょにいることが不思議だった。夢は確かな記憶となり、予感となり、現実のものとなっていた。熱せられたアスファルトの地面は、突然降ってきた夕立で冷やされ、雨音が止むと海の向こうには虹がかかっていた。
ハンドルに添えた反対の手で、彼はあのバーで出会ったときと同じようにアケミの手を握り締めた。それはとても冷たかった、いや、その冷たさが心地よかった。それは孤独を癒す予感であり、アケミの心は彼の気配と混じり合った。
海辺の小さなホテルから見える海は、黄昏の煌びやかな光によって水面を寒冷紗のようなベールで覆われ、紫色に染まった波を沈鬱に眠らせていた。
ユフキがアケミのからだをゆっくりと抱き寄せる。アケミは、じっと海の方を見つめていた。彼の体温が微かに肌に滲み入ってくる。肩にわずかにかかったなびいた彼の髪からは、香ばしい潮の匂いがした。そして薄く開いたピンク色のきれいな唇のあいだに、真っ白な歯が初々しくのぞいていた。
彼はアケミの顔を引き寄せ、唇を重ねた。その瞬間、彼女は小さな声を洩らし、からだを微かに強ばらせる。柔らかな澄みきった唇だった。唇はキスのためにあり、キスが心を躍らせ、からだを芽生えさせることをアケミは初めて知ったような気がした。唇のあいだから、彼のからだの奥の甘い香りが、懐かしい微風となってアケミの中に吹いてきそうな気がした。
重ねられた彼の唇は、まるでアケミの唇を尊いものとして受け入れるように敬虔になる。微熱を含んだ彼の甘い吐息が鼻腔をゆるやかにくすぐる。アケミは彼と唇を重ねただけで、すでに自分のからだの奥に詩を呟くような感傷を抱きはじめていた。
彼はアケミの肩を強く抱きよせ、貪るように彼女の唇を啄み、舌先を差し入れていく。唇の内側を滑るようになぞり、並んだ歯のすき間に舌をわずかに忍ばせる。強く密着した唇に、お互いの体温とともに、からだの奥に潜む匂いが混ざり合っていくようだった。
口の中でふたりの舌が互いを求め合うように密やかに戯れ始める。唾液がねっとりと絡み、彼の滑らかな舌を、まるで澄み切った海に浸るようにアケミは捏ねまわした。