犬使いの少女-1
第1話 『起こらずにいられない』
ある春の日の夕方、俺『永瀬博和』はアパートの自室に置かれたパイプのベッドに寝転がり、なにもせずただじっと時間が過ぎるのを待っていた。
俺はベッドの隣の机の上に置かれた時計に目をやる。
……そろそろだな……
俺はベッドの上から起き上がり財布を手に取ると、玄関のドアを開けて夕陽に染まった外の世界へと出ていった。
春まだ浅い外の空気はまだ肌寒く、俺はズボンのポケットに手を突っ込んでアパートから少々離れたところにあるコンビニへと向かった。
実のところ、もっと近い距離に別のコンビニがあるのだが、最近は今俺が向かっているコンビニを必ず利用するようにしている。
もちろん理由もちゃんとあるのだが、それは弁当の味が気にいったというわけでも、店員さんに可愛い娘がいるというわけでもない。
はっきり言ってそのコンビニとは直接関係ない理由だ。
俺はじっと前方を見つめながらゆっくりと歩を進める。
正直薄ら寒さが身に染みるので早いとこコンビニの中へと逃げ込みたいのだが、そんな気持ちをぐっと抑えて通常の俺でも考えられないほどゆっくりと歩いていた。
しばらくすると前方の角を曲がってこちらへ進路を取る人影を確認した。
その人影は大変小さく、その前には紐で繋がったさらに小さな物体が先を急ごうと跳ね回っていた。
俺は一回大きく息を吐いて少し足早に前へと進む。
距離がなくなるにつれ輪郭以外わかりにくかったその姿がはっきり認められるようになってきた。
……今日も会えた……
俺は内心湧き立つ思いを必死に隠しながらその人物へと近づいていった。
相手の表情が読み取れる距離までやって来た。
俺はさりげない雰囲気を心がけながら、その人物に軽く視線をおくる。
視線の先にはとても小さい外国産と思われる犬を連れている、肩にかかるくらいの黒髪が美しい少女がいた。
年齢は見たところ十歳くらいであろうか、小柄な全身を赤い衣服で覆い、小さい犬相手に両手で紐をしっかり握って懸命に散歩させている姿がとても可愛い。
彼女の前を歩く犬が俺の方へ走り寄ろうとするのを少女が紐を手繰り寄せて阻止する。
俺は足元へ向かってくる犬をかわしながら、それでも少女のすぐ側を通りぬける格好ですれ違う。
その際に見下ろすような形になる少女の顔をしっかり横目で見ておくことも忘れない。
大きな瞳に長めのまつ毛、小さめの唇に丸みを帯びた頬の曲線が目に入り思わず見入りそうになるのをなんとかこらえる。
俺は彼女の少し弾んだ息遣いに後ろ髪を引かれつつもそのまま前へと歩いていく。
少女の方も俺の方に行きかけた犬を再び散歩コースへと戻して俺とは反対の方向へと歩いていった。
……ふぅ……
俺は少女が遠ざかっていくのを後方を軽く振り向いて確認すると、前を向き直って寒さから早く逃れるために全力疾走でコンビニへと向かった。
俺は初めて犬の散歩をする彼女とすれ違って以来、ずっとこの道の先にあるコンビニへと通い続けている。
彼女がいつもほぼ同じ時間に犬を散歩させてるのが解ってきてからは俺もその時間に合わせて晩飯を調達しに行くようになっていた。
彼女がどこに住んでる誰かとかは全く知らないのだが、
とにかく彼女とすれ違うほんの短い間だけでも間近に存在する彼女を感じることで俺は幸せな気分になれた。
俺はその数秒のためにこの道を通って、そしてその先のコンビニで晩飯を買うことにしているのだ。
それで満足かと言われると返答に困るのだが何分相手が小さな女の子ときてはいくら俺でも手を出しにくい……というより手を出したら何かが壊れてしまいそうな気がして必然的にさりげなく眺めるだけでよしとしていた。
そしてそれは俺と彼女の距離がこのままの状態でいつかは終わりを迎えることを俺に約束していた。
もしもそのまま何事も起こらないのであれば……
……………