犬使いの少女-2
……さて、出かけるか……
その日、俺は待ちわびた時が来たことを机上の時計で確認すると例によって財布をズボンのポケットにねじ込んでアパートを出た。
……今日も会えるだろうか……
俺は彼女がいつもほぼ同じ時間に犬を散歩させていると知りつつも少し不安な気持ちでコンビニへと向かう。
いつも彼女とすれ違う通りに入って数十秒たったところで、いつものように犬を連れた彼女が前方の角を曲がってきた。
俺は少しドキリとした気持ちを抑えて、普通に極めて普通に歩くように注意しながら近寄っていく。
俺の目に映る彼女の姿が俺の心臓音と連動しているかのようにどんどん大きくなってくる。
愛らしい顔立ちがはっきりわかる距離まで近づいた時にふと彼女と視線が合ってしまい少なからず動揺したが、それを彼女に覚らせないように自然な動きを心がけて目をそらす。
彼女のとても小さな体が俺のすぐ横を通り過ぎる。それは手を伸ばせば届く距離ではあったが、永遠に手の届かない距離にも思えた。
俺は首だけを回して彼女の後ろ姿を振り返り小さな背中を見送ると、前を向き直して深いため息を一回吐いてコンビニへと向かう足を早めた。
その時、後方から突進してくる者がいたことに俺は気づいていなかった……
ワンワンワン
……へ?
かなり近い距離から犬の鳴き声が聞こえてきたのに驚いて後ろを振り向くと、小さな影が猛スピードで俺の足元へと走り寄るのが一瞬見えた。だがそれはすぐに俺の視界から消え去った。
そして次の瞬間、俺の左手に激痛が走った。
「あいたたたたっ!!」
俺の左手には少女が連れていたあの犬が紐を首からだらんと地面に垂らして噛みついていた。
「ご、ごめんなさいっ! チャオ、噛んじゃダメッ!」
犬を追って少女がこちらに向かって駆け寄ってくる。彼女にチャオと呼ばれたその犬は彼女の叫ぶ声を聞いて俺の手から口を離した。
犬は彼女のもとへと走り去り、彼女の両腕に抱え上げられる。
少女は両腕でがっちりと犬を抱きかかえると、そのまま俺の側へと寄ってきた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
俺は思いがけずやってきた彼女と会話ができるという幸運に少しどぎまぎしながらも
「え? ああ、大丈夫。なんてことない」
と努めて平静を装った。
「……でも、チャオ、思いきり噛んじゃってましたよ?」
俺は噛まれた左手の甲を自分の目の前へと持ってくる。
なるほど小さな歯形に沿って血が滲んでいた。少女も俺の手についた歯形を覗き込む。
「いや、でもこのくらい、なんてことないから」
俺がそう言うと、俺の手を見ていた少女が俺の顔を見上げた。俺はアップで見る少女の顔にドキッとする。
「でも、血が出ちゃってる……」
そう言って少女は再び俺の手に視線を移す。
「いや、本当、大したことじゃないから。こんなのなめときゃ治るよ」
「……本当?」
「あ、ああ」
「……ふ〜ん」
少女は犬の紐の端の輪になっている部分を握ると自分の手にぐるぐると紐を巻き付けていく。
そして丁度犬が地面につくぐらいの長さまで巻きとると犬をそっと足元に下ろした。
少女の足元に下ろされた犬は、ついさっき猛然と突進して俺に噛みついてきたのが嘘のように大人しくしている。
俺が犬の方をこわごわと見ていると、少女が突然俺の左手を掴んできた。