別章1 芽衣の過去 残された2年間の高校生活-3
近づくにつれ、風に乗って土と芝生の香りがしてくる。
「いくぞ〜。」「ナイスバッチ」「バックホーム〜」という声が、
だんだん近づいてくる。
芽衣は母親とともに、足を一歩一歩、進めた。
野球部の部室の建物が見えた。
一瞬、立ち止まりそうになった芽衣に、母親が言った。
「ほら、芽衣。あそこ。」
部室の横で、誰かが手を振っていた。
「芽衣ちゃ〜ん。」
真奈美だった。
笑顔の真奈美だった。
あの時の自分を恥じるようなそぶりも、
芽衣に対して、申し訳ないと思っている様子も全く感じられない。
久々の友との再会を心の底から喜んでいる屈託のない笑顔がそこにはあった。
「やっと、帰ってきたね。お帰り、芽衣ちゃん。」
「。。。。」
「ごめんね。真奈美ちゃん。この子、まだ本調子じゃないの。だから。。」
「うん。先生から聞いたよ。芽衣ちゃん。無理しないでいいからね。」
「うん。」
「最後の夏、甲子園、一緒に行こ!」
真奈美はそう言い残すと、手を振ってグランドへと駆けていった。
「あの子ね、真奈美ちゃんって。」
「うん。」
「先生から伺ったわ。あの子も、小さいころから、いろんなことがあったんだって。」
「うん。」
「どうする?今日は、ここで帰る?それとも。。」
「グランド、見ていく。」
そう言うと、芽衣は自分から足を進めた。
母親も少し遅れて歩き出した。
(そうよ、芽衣。自分の足で歩かなくちゃ。
そうしなければ、乗り越えられないこともある。
誰かの力に頼るんじゃなくて、自分の力で乗り切っていくのよ。)
芽衣の回復は凄まじかった。
次にはグランドに降りて、ボールを握った。
久々の感覚だった。
一人の部員が声をかけてきた。
「キャッチボール、するか?」
「パシッ。」「パシッ。」
小気味いい音がグランドに響く。
「カーン。」
誰かが打った打球が快音を残して青空へと舞い上がる。
(そうだ。わたしにとっての野球は、これだ。これが野球だった。)
その瞬間、大好きな野球が、芽衣の元へ戻ってきた。
程なくして、芽衣は正式に、マネージャーとして復帰した。
そこに、かつての親友、千遥の姿がないことに、芽衣は気づいたが、
誰にも聞かなかった。
夏の地区予選が始まった。
芽衣はベンチに入り、スコアを付けながら声をからして応援した。
チームは2回戦で、第1シード校を破り、準々決勝へとコマを進めた。
2点リードで迎えた最終回。2アウトながらすべての塁は埋まっていた。
「あと一人〜!」「落ち着いていけ〜!」
ベンチからも大きな声が選手たちに飛ぶ。
カウント1−1。
「カーン」
乾いた音を残して、ボールが外野へと飛ぶ。すべてのランナーが走りだす。
ライトがゆっくり下がる。
「勝った!」
誰もがそう思った。ゲームセット、と思われた瞬間だった。
捕球直前のライトが足元のくぼみに足を取られ、転んだ。
次々とランナーが戻ってくる。
「早く!」
中継に走ったセカンドが叫ぶ。
3人目のランナーがキャッチャーのタッチをかいくぐりホームインした。
芽衣たちの夏が終わった。
声をあげて泣く選手たち一人一人に声をかける芽衣の目にも、大粒の涙があった。
誰も、ほとんど口を開くことなく、バスに乗り、学校へ戻る。
懐かしグランド。懐かしい部室。
涙をこらえながら感謝の言葉を述べる3年生部員たち。
唇をかみしめながら、来年を誓う下級生部員。
部室の片づけを終えた後、芽衣は自分の荷物をまとめ始めた。
いつかこの日が来ることはわかってはいたが、
いざ、その日を迎えると、言いようのない寂しさが襲ってくる。
(この部室でも、いろんなことがあったな。)
蘇ってきそうな忌まわしい思い出を振り払うように立ちあがると、
そこには真奈美が立っていた。
真奈美も、荷物を持っている。
「じゃ、帰ろうか。」
芽衣がそう言うと、真奈美が荷物を取り落とし、
突然、抱き付いてきた。
「真奈美ちゃん。もう泣かないよ。さ、帰ろ。」
真奈美は芽衣の胸に顔を押し付けながら、泣きじゃくっていた。
「芽衣ちゃん。ごめんね。ごめんね。」
「どうしたの?何がごめんなの?」
真奈美は、あの日のことを話し始めた。
あの日、芽衣たちがあんな目にあったのは、自分のせいだと。
芽衣の脳裏に、あの日の感覚が突然蘇ってきた。
(フラッシュバック?)
恐れていた自体が起きた。
その瞬間、芽衣は思わぬ行動に出た。
泣きじゃくる真奈美の体を押しのけると、
いきなり真奈美のほほを平手打ちしたのだ。「パシッ。」
驚いて自分の頬に手を当てる真奈美。
芽衣はその手を掴み、自分の頬へと思い切りたたきつけた。
「バッシ〜ンッ!」
乾いた音がして、真奈美の手のひらが芽衣の頬をクリーンヒットした。
「痛った〜い。。」
「芽衣ちゃん。」
真奈美が芽衣の顔をじっと見た。
「今のでおあいこでしょ。いいよ。これで終わりにしよ。
最後の夏、3年生部員たちにわたしに内緒でお守りを贈ってたことでしょ。
知ってたよ。」
芽衣はそう言ってニッコリ笑うと、真奈美の肩を抱き寄せた。
大きく息をすった芽衣は、真奈美にやさしく話しかけた。
「ありがとね。真奈美ちゃん。落ち着いたから、もう大丈夫。」
真奈美にも椅子をすすめ、芽衣も向かい側に座った。
「じゃあ、話、聞かせて。あの日のこと。」