別章1 芽衣の過去 残された2年間の高校生活-2
芽衣はベッドに横たわると、戸棚の中に残っていた精神安定剤を一気に口の中の流し込んだ。
(これであの地獄から解放される。もう苦しまなくていい。恥ずかしい思いもしないで済
む。
お母さん、ごめんね。
でも、わたしが生き続けていけば、いずれ、お母さんも苦しめることになる。
こうした方が、親孝行のような気もするんだ。)
遠ざかる意識の先に母親の笑顔が見えた。
芽衣は、目を覚ました。
(。。。まぶしい……蛍光灯?…窓の外にビル?……ここは?
病院? 点滴。。。お、お母さん?)
芽衣がしっかりと目を開けると、
そこには椅子に座ったまま眠っている母の姿があった。
「おかあ、さん。。」
芽衣の問いかけに、母親が目を開いた。
「。。よ、良かった。。。。」
後は言葉にならなかった。
芽衣も、思い切り泣いた。
暖かい母の胸にすがって思い切り泣いた。
泣きながら、母が芽衣に行った。
「芽衣。よく頑張ったね。たった一人で戦って。辛かったね。苦しかったね。
ああ、お母さん、少しも気づいてあげられなくて。ゴメンね。」
あの日、朝になっても全く起きた気配のない芽衣を心配した母親は、
芽衣の部屋のドアにカギがかかっていることに不安を覚え、父親を呼んだ。
ドアを激しく叩いても反応がないことで、全てを察した父親は、
ドアに体当たりをし、ドアを開けた。
ベッドの上には、口から泡のようなものを吐いている娘が横たわっていた。
救急搬送された芽衣は、直ぐにICUへ運ばれ、蘇生処置がとられた。
懸命の治療のかいもあって、一命はとりとめたものの、
薬による作用によって、
芽衣の奥深くに閉じ込められていたあの妄想が再びその悪魔の牙をむいたのだ。
医者は、その異常に素早く気づき、
素早く芽衣に催眠カウンセリングを実施、さらには最新の催眠療法を施した。
そして芽衣のあの忌まわしい過去は両親の知るところとなったのだ。
芽衣は、徐々に正常な状態を取り戻していったが、
あと一歩と言うところで、深いこん睡に落ちてしまった。
医者は言った。
「おそらく、娘さんの脳の中では、ある種の戦いが行われているのだと思われます。
辛い思い出を乗り越えて生きていこうとする思いと、
その辛さから逃れるために記憶に蓋をしようとする思い。
その相反する思いが、今、最後の戦いをしているのでしょう。
少し時間はかかると思います。
娘さんの、ぎりぎりのところでの戦いですから。」
「昏睡から覚めた時に、記憶を失っている可能性もあります。
辛い過去を忘れるために。
それはそれで、娘さんにとっては幸せなことかもしれない。
けれど、願わくば、弱い自分に打ち勝って、
辛い思い出を乗り越えて強く生きていこうとする方の娘さんが、
勝ってくれることをわたしは祈っています。
医者の立場と言うよりは、親の立場に立ってみた時に、でしょうか。」
数日後、芽衣は深いこん睡から戻ってきた。、
あの忌まわしい過去の記憶は消えてはいなかった。
芽衣は、忌まわしい過去に蓋をして辛いことから逃げて生きていこうとする、
弱い自分との戦いに勝ったのだ。
リハビリがしばらく続いた。
心理療法と催眠療法、そして投薬による治療を併用しながら、
芽衣は自分の心との戦いを続けた。
(フラッシュバック。)
それが起きる可能性は否定できないと医者は言う。
何かをきっかけに、あの忌まわしい記憶に支配される自分がいつ、
出現するかもしれない。
(そうなったらどうしよう)と言う気持ちと
(そんなものには負けない)と言う気持ちが芽衣の頭の中で行き来する。
リハビリも兼ねて、少しずつ、登校を再開することになった。
週に2日が3日、3日が4日、午前中だけから1日通してまで、
順調にリハビリは続けられた。
ある日、芽衣は医者と両親を前に、心の底にあった思いを打ち明けた。
「野球部の、、、マネージャーに、戻りたい。」
父親が真っ先に反対した。主治医も否定的な言葉を口にした。
「少しずつ、でいい、から。。。」
涙を浮かべながら訴える娘を見て、母親が口を開いた。
「練習、見に行ってみようか。」
芽衣は母の手を取って泣き出した。
「お母さん。お気持ちはわからないでもありませんが、
これは、あまりにもハイリスクだと思います。」
医者が父親の顔と母親の顔を見ながら言った。
「わかっています。でも、この子は、小さなころから野球が大好きだった。
兄と一緒にキャッチっボールをやり、
憧れた男の子も、みんな野球部のエースだった。
この子の大好きな野球を、守ってやりたいんです。
大好きなままでいさせたやりたいんです。
だから、負けちゃいけないんです。そのためにも。。。」
母親の手を取りながら父親が口を開いた。
「先生。こいつの言うように、させてやってください。
何かあっても、すべて私たち親の責任です。
こいつとわたしも、野球が縁で知り合い、結婚しました。
その影響もあってか息子も娘も、野球が大好きになってくれて。
こいつの言うとおり、
娘には、これからも野球を愛していってほしい。だから。。」
黙って聞いていた医者が顔を上げた。
「わかりました。わたしもできる限りの協力はします。
ご両親のおっしゃること、娘さんの思い、よくわかりました。
乗り越えなければならないハードルは、まだたくさんあろとは思いますが、
娘さんの意志を尊重しましょう。」