揺れる蕾(ロリータ・コンプレックス)-3
3
きっかけは他愛も無いことだったらしい。
幼さ故の意固地な反抗か、良き母親をやろうとするあまりの意地なのか。とにかく普段は仲の良い二人が珍しく起こした衝突は着地点が見えないままに時間切れとなり、両親と祖母、そして姉夫婦の五人だけが出かけ、いつもどおり留守番の習字に悠菜が託された。
最初のうちこそ俯いてじっと床を見つめていた彼女だが、習字が選んであげた本を手に取り、ソファで並んで読み始めた頃には表情に落ち着きを取り戻しつつあった。それでもまだ涙の流れた後は乾ききっていなかったし、いつもの様な屈託の無い笑顔を見せはしなかったけれど。
「ねえ、悠菜ちゃん」
「何」
無理に笑みを浮かべようとしているかの様な少し不自然な表情で彼女は顔を上げた。
「お母さんて、普段はどんな感じなの?」
「普段?」
彼女は首を傾げ、上目遣いに習字を見つめた。
「例えば、悠菜ちゃんが学校から帰った時とか」
僅かに緩んだその口元から白い歯がこぼれた。
「おかえりなさい、って、優しく言ってくれるよ」
「じゃあ、寝る時は?」
「ふとんを掛けて、頭を撫でてくれるの」
習字は自分が子供の頃、同じように姉に頭を撫でられたことを思い出した。それは何歳頃のことだったのであろうか。ずいぶん年の離れた弟である習字を、姉はいつも子供扱いしてからかった。しかし、年長者としての思いやりも忘れてはいなかったのだ。
「でもね」
ほころびかけていた悠菜の顔が少し曇った。彼女は手元の本を見つめて言い淀んでいる。
「優しくない時もあるんだね」
こくん、と頷いてから、慌てて首を振り、悠菜は急いで言葉を継いだ。
「お仕事でね、疲れているからしょうがないの」
結婚するまで保育士をしていた姉は、悠菜が小学校に上がったのを機に午後二時までパートとして職場に復帰した。生真面目な彼女のことだ、仕事も家事も手を抜くなんて事は出来ずに頑張っているに違いない。習字はそう思った。
「疲れていると優しく出来ない。それが悠菜ちゃんにはちゃんと分かってるんだね」
照れたように唇を噛みながら大きく頷いた悠菜に、ようやくいつもの無邪気な笑顔が戻ってきた。
「あ、そうだ。僕はね、疲れた人を元気にしてあげる仕事をしていたことがあるんだよ」
悠菜は目を丸くした。
「どうやって?」
「マッサージって分かる?」
肩を揉む仕草をしてみせた。
「わかんない」
厳密に言うと習字がやっていたのはマッサージでは無い。もみほぐしというやつだ。前者が国家資格を要する治療行為なのに対し、後者は資格を必要としないリラクゼーションだ。そのため、資格取得まで最低でも三年かかるマッサージとは違って、もみほぐしの店には僅か十日程の研修を受けただけで現場に投入された、はっきり言ってしまえば「素人」が少なくない。営利拡大の為に急速に店舗展開をすれば、有資格者や熟練者が足りなくなるのは自明の理。それを埋める為の促成栽培システムというわけだ。だが、数年続ければ素人もそれなりに上達はするし、自信も持てる様になる。
「体の疲れた部分をね、押したり揉んだり撫でたりしてあげるんだ」
「そしたら元気になるの?」
「なる。少なくとも、ラクにはなる」
「そうなんだー」
悠菜は興味を示したようだ。
「ねえ、私にもしてくれない?」
母親と酷い喧嘩をして沈んでいる気分を少しは晴らしてあげられるかもしれないと考え、習字はそれを了承した。
「いいよ。じゃ、うつ伏せに寝て」
「はーい」
悠菜は言われた通りに素直にソファーで横になり、習字は彼女を跨ぐ形で片膝立ちをした。
「まず背中ね」
ワクワクを隠せない様子で悠菜は頷いた。
習字は両腕をまっすぐに伸ばして自然に手を開き、悠菜の肩甲骨と背骨の間の窪みに親指を当てた。
「痛かったり、もっと強くして欲しい時は遠慮無く言ってね」
「うん」
じわり、と指先に体重をかけた。
「んー」
悠菜が鼻から可愛らしい声を漏らした。
「気持ちいい?」
「うん、もっとして」
年齢などによって、手応えはずいぶん違う。例えば二十代前半の女性の背中は柔軟に指を受け入れる。それに対し、三十代、四十代と年齢が上がるにつれて硬い感触になっていき、ポイントに到達するためには強い力を要する。悠菜の背中はというと、手応えは浅いが中高年のような枯れた硬さは無い。しかし、若い女性の様な深い肉付きも無いので、筋肉を痛めない為にはより慎重に指を入れなくてはならない。
習字は、背骨沿いに徐々に下へと移動しながら優しく悠菜の背中をもみほぐしていった。それを数セット繰り返すうち、悠菜の体から力が抜けていくのを感じた。眠くなってきたのだ。習字は構わずに施術を続けた。客が寝てしまうことは珍しくない。
尻のサイドの窪みに肘を入れる手順に入った。微妙な位置なので、女性に行う場合には細心の注意を要する。セクハラと言われてはたまらないからだ。
「うひゃ……」
日常生活ではふつう経験することの無い刺激に、悠菜は寝ぼけながらも反応した。
「あ、気持ち悪い?」
「ううん、気持ちいい。それ、もっとたくさんして」
この施術を好む客が多かった事を思い出しながら、習字は少しずつ位置をずらしつつ、左の尻のサイドに肘を入れていった。
「もっと下」
「はい、お客様」
「もっと右」
習字は手を止めた。
「悠菜ちゃん、それだとお尻の穴のあたりになっちゃうよ?」
微妙な位置、どころではない。成人女性にやったら完全にアウトのやつだ。