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セクリンピック開催の実現に向けて
【スポーツ 官能小説】

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セックスの競技化を考えるために必要なこと-1

競技を考える上で、忘れてならないとは、
「セックスは、公衆の面前でするような行為ではない」という思い込みをなくさねばならない。

世の中には、スポーツだけでなく、
 個人の能力を人前で披露したり競ったりするものがたくさんある。
 多くは、絵画や演劇、音楽といった芸術性に溢れるものが多いが、時には、大食いコンテストのように、スポーツとは言えない、また、芸術的とも言いがたい、そんなものまでがテレビで放映され、王座を競い合い、時には賞金まで手にするのだ。

 人は、「あなたが一番得意なことはなんですか?」と聞かれたとき、
 様々なものを答えるだろう。

  「ギターを弾くことかな。」
  「書道です。」
  「英検2級です。」
  「料理が得意です。」
  「小さい頃からテニスをやってます。」
  「落語です。」
            等々。

 しかし、
「フェラチオが得意です。」
とか、
「バックからならどんな女性でもいかすことができます。」
「持続力には自信があります。」
といった答えは、ついぞ聞いたことがない。

 はたして、セックスに関することを、
得意だ、と思っている人間はいないのであろうか。
 心の中では
「誰よりも自分が。。。」
と思いながらも、

 他人と比べる機会がなかなかなかったり、
 人に評価してもらえる場面がなかったり、
 という理由で、自分の能力に自信が持てないでいるのだろうか。

 いや、そういった理由ならまだしも、
「そんなものは、人様に自慢するようなことじゃない」
と、親や教師に言われた価値観や道徳、倫理に囚われているのではないだろうか。


 生殖能力が高い、というのは、生物すべてにおいて、まさに生き残っていく上では、欠かせない能力である。

 人間は、その例外なのであろうか。

「わたしは、持続時間は短いけれど、一晩に17回も射精したことがある。」
「わたし、一晩で10回もいけるの。」
「わたしが咥えたら、どんな男だって5分と持たないわ。」

 そうした会話が、日常生活の中でされてはいけないのだろうか。

「セックスはスポーツなどではない。愛の結晶であり、心が伴うものだ」
 そのように考える人もいる、
 それはそれで間違ってはいないし、確かにそうしたセックスもあるはずだ。

 誰にも見せることなく、誇ることなく、
 自分の、自分たちの愛の形としてのセックスを否定しはしない。



 自分のために、健康のために、ストレス解消のために、
 人と競うこともなく、
 記録にとらわれることもなく。
 夫婦二人で、
 二人の仲を、さらに深めるために、
 毎晩、卓球をする。
 
 そんな夫婦が、ある日、何かのきっかけで、
  別のパートナーを見つけ、
   ダブルスを組んで試合をし、
    勝ち負けにこだわり、
  今度こそ勝ちたい、
  もっと上手になりたい、
  そう考えて、トレーニングをし、

 素振りを繰り返し、
 ランニングで足腰を鍛え、
  時には別のパートナーとペアを組み、
  互いの力を高め、
   より絆が深まり、
   強い相手を倒す実力を身に付ける。

 応援してくれる家族、友人。
 その人たちの前で活動することで、
 更に意欲が高まり、技術が向上する。

  二人の仲を確かめ、深めていくための手段であった卓球が、
  他者と関わることで、
  二人の仲で、さらに大きな存在となっていき、
  二人の仲は、さらに深まっていく。



 
 さあ、ここまでの話に出てきた《卓球》という言葉を、《セックス》という言葉に置き換えて、今一度読んでみて欲しい。
 セックスと言うものの「可能性」が広がったようには思えないだろうか。

 セックスというものを通して多くの仲間が集い、
 互いの技術や技を、力を披露しする。
 多くの観衆の声援にこたえながら。。。



 そんな「セクリンピック」の実現に向けて、
 具体的なプランを練り、
 今こそ、立ち上がろうではないか。


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