月虹に谺す声・第二章〜摩天楼に唄う小鳥〜-2
少年はその男に視線を向けるが、男は気にする風でもなく、屋台の裏で洗い物をしている親父に声を掛けた。
「おい、なんだい。今日はもう店じまいかい?」
言われて親父は手を止め、振り返る。
「あ、いやぁ、すみません。今日はもう閉めようかと、道具の片付けをしちまったんで…」
首に掛けた手ぬぐいで顔を拭き拭き、親父はそう答えた。
「そうかい、そりゃあ残念だ。まあ、また今度寄らせてもらうよ」
バンダナの男はそう言うと、今更のように少年に気が付いた顔をした。
「…おや、こんなところで眷属に会うとはな」
はっとして少年は男を振り返るが、そこには既に男の姿はなかった。
「御馳走様。小父さん、お金、此処に置いておきます」
少年は最後にコップの水を流し込むと、懐から財布をとりだして小銭を置いた。
「おう、坊ちゃん。また来てくれよな」
屋台の親父は人好きのする笑顔を見せて立ち上がり、丼の傍らに置かれた小銭を取り上げた。いつもなら残業帰りのサラリーマンや酔客が主な客だったが、今日は少年とバンダナの男の二人きり。こんな日もあるかと小銭を手提げの小さな金庫に投げ入れると、少年の残した丼を片付ける。
「さて、俺もそろそろ帰るとするか…」
そう言って欠伸交じりに伸びをする親父。それが、この蕎麦屋が店を出した最後の日となった。
翌日。野犬に襲われた屋台の親父を、ゴミ集積車の職員が発見した。遺体は救急車で直ぐに運ばれ、早朝のことだったので街が眠りから完全に覚める前に警察は現場検証を済ませた。通勤時刻にはアスファルトに残った赤黒い血痕と、白墨の後がそこで惨劇があったことを物語っていたが、それも直ぐに雑踏に踏み消され、蕎麦屋が殺されたことを知る者は殆どいなかった。
しかし、その現場に一人、不思議な少年が立っていた。少年の名前は月郎。昨夜、屋台で蕎麦を食べていた少年である。
月郎は狼の眷属と呼ばれる獣人の末裔で、生き別れた姉を見つける為、狼の楽園へ通じる門を探して旅を続けていた。この街に姿を現したのも、その手掛かりが得られないかと狼の都市伝説を追ってのことだった。
通勤時刻も過ぎ、人気の少なくなった通りにしゃがみ込み、血の跡を見つめる月郎。ふと見ると、側に赤茶色の獣毛が落ちていることに気が付き、それを拾い上げる。
「月郎じゃない。あんた、生きていたんだ…」
女の声がして、月郎は振り返った。
声の主は十七、八の美少女であった。やや勝ち気で意志の強そうな瞳と鮮やかな赤い唇が印象的である。対峙した感覚は狼の眷属のそれであることに違いはなく、少年はその少女に何処かで会った気がしたが、記憶は定かではなかった。
「…あの」
声を掛けられた少年は一瞬戸惑いの声を上げた。人付き合いは苦手で、人の顔を覚えるのも得意ではない。しかし、自分の名前を知っているのだから相手とは面識がある筈なのだ。
「…もしかして、あたしのことを忘れたんじゃないでしょうね?」
きょとんとした顔の月郎に対し、相手の女はこめかみに血管浮かべて引きつった笑みを見せる。が、直ぐに気を取り直し、少女は大きな溜息を吐いて肩を落とした。
「はあ、どうせあんたの事だから、あたしの事なんて覚えちゃいないか…。まあ、いいけどね」
そう言うと少女は月郎が手にした獣毛を取り上げた。取り返そうと手を伸ばす月郎の手を少女は邪険に払うと、興味津々と言った様子で毛を眺める。
「私の名前は紅蘭。今度忘れたらぶっ殺すからね…」
そう言ってぼやく少女。言われて、月郎は今更ながらに紅蘭の事を思い出すが、どのみち後の祭りである。取り敢えずその事には触れず、紅蘭がするに任せる。
「これは、狼の毛じゃないの?」
野犬と狼の眷属では手にしたときの感触が違う。本能的な何かを呼び覚ます、超常的な臭いを感じるのだ。
「狼を従えた魔女がいるって聞いていたけど、眷属の仕業みたいね」
紅蘭はそう言って手にした獣毛を月郎に返した。
「昨晩、此処で眷属に会いました。でも、それは若い男で、魔女と呼ばれるのが何かは分からなかった…」
昨晩のことを思い出し、紅蘭にそう告げる月郎。ふと甘い女性の体臭が鼻腔をくすぐり、思わず顔を赤らめ、そっぽを向く。