それもまた、未来だった-2
赤い建物部分は、時間を決めて観客を入れる映画館になっていた。
しばらく列に並んで入って見ると、建物の中は 上部にドームのついた巨大な円柱状になって、大きなマネキン人形を分解したような白い女性の身体の彫刻が いくつも取り付けられていた。
床には座席などなく、床に座りこんで見るようになっていた。
映画は その建物内部すべてをスクリーンにして上映された。
映画の内容にストーリーはなかった。
一人の女性を主役にした、セリフのない前衛的な世界だった。
白い女体の彫刻に女性の姿が投影され、立体的に見せる部があったり、時々おびただしい数の線条が建物内部を勢いよくぐるぐる回ったり、下から上へと走ったりして、まるで振り回されたり どこかへ落とされるような錯覚をおぼえたりした。
何年もあとになって知ったことだが、その映画は「過去のない少女『アコ』」を主役にしたもので、いくつかのフィルムと映写機とを入れ替えて上映するから、同じ内容を二度見ることはない、なんて実験的な作品だったそうなのだ。
「せんい館」の中には二つの部屋があった。
どちらも全く同じ調度品をそろえたリビングルームなのだが、その内部は全く異なっていた。
ひとつの部屋は、どこにも何の色もついていない白一色。もうひとつの部屋は、ちいさくちぎられた赤青緑黄といった色の布がほとんど秩序なく、スキマなく無造作に貼りめぐらせてあるのだ。
母親は、この二つの部屋を「どっちに入っても目が痛くなる部屋」だと呼んでいた。
その部屋は、色のある方が「せんいと色のある生活」、色のない方が「せんいと色のない生活」を表したものだと説明されていた。
しかし、今にして思えばそれは「あと付け」ではないかと思う。
先述の文章にこんなことが書かれてある。
……ここへは、世界各国から布地が送られてきていたのだが、ここのディレクターはそれを使って、なんとモップ(柄のついた雑巾)を作ってしまったのだ。これはさすがにだいぶ内部でもめたらしい。……
残念ながら、このモップを見た記憶はない。
この文章に出てくるディレクターが、芸術家の横尾忠則氏だと言うのだ。
だいぶ自分が成長して、横尾忠則氏の作品や活躍を知ってから そのことを聞いたので「ああ、そういうことだったのか。」とあのパビリオンの面白さを思い返した。
もともと「せんい館」と言うからには繊維の業界が、繊維への理解を深めてもらうことを目的に出展したに違いない。
だけど、繊維に関する展示など、どこにもなかったと思う。
パビリオンの演出を任せたディレクターが、ひとつのパビリオンを 自分の世界観を表現する場にしてしまった……とはいえ、ある意味流行の先端をゆく「繊維業界」だから それを容認する気質があったのかも知れない。
せんい館は半年だけ存在した作品だった。
たぶん「あんなパビリオン」を公開する博覧会は、もう現れないと思う。
たとえ次の「大阪万博」であっても。
【おしまい】