悠子-6
「どうしたの?」
「え?」
「うちに帰らないのかい?」
「あっ。マスターはこれからどうするんですか?」
「マスターか。雇った途端におじさんでなくマスターになったんだね」
「はい」
「僕はこれから食事して、少し早いけど店に行って掃除でもしようと思ってる」
「それじゃ一緒に食事して一緒に掃除もしますよ。別に帰ったって何もすること無いですから」
「え? そうか。でもそんなに稼がれたんじゃ堪らないよ」
「え? ああ、掃除はサービスですよ。給料は7時からでいいです」
「そうか。それじゃ食事をご馳走しよう」
「いいですよ。私が奢りますよ。いろいろ世話して貰ってその上ご馳走にまでなったりは出来ませんから」
「結構律儀なんだね。まあ今日からは僕が君のボスだから、ボスが奢って貰う訳にはいかないさ」
「そんなこと無いですよ。私結構金持ってんです」
「それじゃまあ、割り勘にしよう。それならいいだろう」
「マスターも律儀なんですね」
「律儀? こういうのも律儀って言うのかな」
悠子はそのまま洗濯した下着と服に着替えて、家に戻ることもなく仕事に付いた。
店は悠子が入ってから目に見えて売り上げが伸びた。いつも30分で帰る人が1時間いるようになり、週に1回来る人が2回も3回も来るようになった。誰だって酒を飲む時くらい女がいて欲しいのだ。そうで無ければ家で飲んだ方が遙かに安い。この分なら少し値上げしようかなと思った。この店の売りは何と言っても安いことなのである。そんなに安いならうちで飲むよりあそこに行こうかと客が思ってくれるような値段を設定しているのである。女の子がいるならその分値上げしても当然のように思える。しかし、何時まで悠子が働いてくれるか分かったものでは無いし、辞めた途端に値下げするというのも厭らしい。
正体をなくす程酔った姿を始めに見たものだからどうせそんな女だろうと思っていたのに、なかなかどうして大変な働き者であった。酒は勧められてもその度に一口くらいしか飲まないし、酔っても酔わなくてもいつもニコニコ明るくて愛想が良く、客受けした。愛想良く客の相手をしながらクルクル良く動いてこまめに何か見つけては仕事している。これは拾い物をしたと喜んだが、問題は何時まで働いてくれるのかということである。
今まで何人も雇ったがいずれも長続きしなかった。折角つてを頼って雇っても大体長くて2回、短いと1回給料を貰っただけで辞めていく。給料は10日毎に支払うから、10日か20日で辞めていくということである。中には給料日まで待てなくて、今日で辞めますから精算して下さいなどと平気で言う子もいた。やはり同年代の女の子が何人かいてワイワイ遊び感覚で働けるような店の方が若い子には楽しいのだろう。平日などは客が全くいない時間も多いのだが、そんな時年を食った光太と2人でぼんやり来る当てのない客を待っているというのは気詰まりなのだろう。ところが悠子はお喋り好きなのか、客がいないと間断なく光太に話しかけて来て、お喋りを楽しんでいる風だった。
「ねえ、マスター。タイの女性といろいろあったって言ってたでしょ? あれ、聞かせて下さいよ」
「え? まあ大したことじゃない」
「で、どんなことがあったんですか?」
「ホテルで僕んちの電話番号を教えてくれと言うから教えたんだ。当時僕は独身だったし」
「そしたらかかって来たんですね」
「ああ、それから1ヶ月くらいして彼女のことなんかすっかり忘れた頃に掛かって来た。日曜で会社が休みだから家でのんびり新聞読んでた時だったけど」
「何て言ってかけてきたんですか? 又会いに来てくれって?」
「それが全然違う。彼女僕と会った時はタイから来たばかりで全然日本語が喋れなかったんだ。セックスするのに言葉は要らないし、それで足りたんだね。電話番号も手振りで電話かける動作して手帳を示すから、僕の番号を教えろっていうことなんだって分かったんだ。で、1ヶ月くらいして電話して来たっていうのも、正確に言うと彼女が電話して来たんじゃない。何処かのおばさんが電話して来たんだ」
「何処かのおばさん?」
「ああ『私、駅前の公衆電話の前を通りかかった只の通行人なんですけど、外人の女の子が電話のかけ方が分からなくて困ってたんです。それで近づいたら電話番号の書いてある手帳を見せて何か頻りに言ってるんで、此処に電話をかけたいんだなって思って代わってかけてあげたんですけど、言葉が分からないから、彼女に替わりますよ』って言うと僕の返事も待たずに彼女に受話器を渡して行ってしまったようなんだ」
「へえ。それで彼女何と言うんですか?」
「だから、それが分からない。とにかく日本語が全く喋れないし、英語も喋れない。タイ語で頻りに何か言ってるけどタイ語は僕が全然分からない」