Misty room/station-1
町野 隆は、眼鏡のふちを人差し指でつい、と上げた。
車内は深夜らしく閑散としている。見れば数人の乗客が、それぞれの顔で焦点をぼやかしている。
緩やかな右カーブにさしかかり、僕の体が座席に押し出された。
「きゃっ」
座っていた女性に覆いかぶさるように、僕は転ぶ。
「す、すいません」
言って彼女を見た。やけに目の釣りあがった、どこか大企業の社長の秘書でもしていそうな女性だった。ぶつかった際に、読んでいた本を落としたのだろう、僕の弁解も聞かず、慌てて投げ出された本(小説だろうか?)に手を伸ばした。そして何事も無かったかのように座席に戻り、本に目を戻した。
ふいに、何か焦燥感のようなものが込み上げた。
何か大切なことを、僕は忘れてしまった気がする。
「次は〜、次は〜」
やけにやる気の無い車掌の声が響く(おそらく家に帰って缶ビールでも一杯やりたいのだろう、僕と同じだ)。僕は窓の外に目を移す。コマ送りのように過ぎる風景に、眩暈を感じ、先ほどの女性に視線を向けた。
女は文章を目で追いながら、全くその内容を頭に入れていなかった。
『やめてやる、やめてやる、やめてやる・・・』
ただそのフレーズだけが女の頭の中をリフレインしている。
あぁ、なんていう日だろう。
朝寝坊から始まり、社内ではお決まりのセクハラまがいの会話。仕事自体すごくつまらないし、残業も多い。今日なんて終電に間に合うかどうかの退社時間でおまけに車内では、臭い男に覆いかぶさられて・・・。
明日こそやめてやろう。
いや、明日なんて来なければいいのに。
次のページをめくる。書いてあるのは不満ばかりで溜め息がもれる。
はぁぁぁあ。
それは女からではなく、隣に座るおじさんからだった。
その深い溜め息に、女は視線を向けた。
はぁあぁ。
溜め息が止まらない。
どうしてだろう。
男には分からない。
腕時計に目を向ける。十一時四十五分。正確な時刻を告げるその時計は、見る人が見れば、かなりの代物。このスーツだって向かい側で酔いつぶれているサラリーマンが聞けば即倒するような値段だし、今財布を開ければ横に座る女と次の駅で一緒に降りることだってできる。
プシュー
ゆっくりとドアは開き、冷たい外気だけを連れてくる。
ただ、それだけだ。
俺の人生は、それだけだ。
今までも、きっとこれからも。
仕事は恐ろしいくらいに軌道に乗り、もう失敗するほうが難しい。黙っていたって笑いながら暮らせるけれど、きっと笑いながらは死ねないだろう。そういう人生は選んでいない。
はぁぁあ。
たぶん、それが間違いだ。
ここじゃない世界が欲しい。
本当は、飲んだくれたあのオヤジのほうが人生を謳歌しているのではないか。
一度きりの人生を。
真っ赤に顔を染めた向かいに座る男性を見遣る。
全く酔えない。
酔えるはずが無い。
妻には逃げられたのに、酒には逃げられないのか?理不尽な世の中だよ、まったく。
電車の揺れにあわせて、体は右に左に。確かに体はアルコールに負けているけれど、頭は悲しいくらいに冴えている。例えば、向かいの男の腕時計はクレドールだし、その隣の女が読んでいる本は『転職のススメ』。立っている小僧は、その女をチラチラ見ているし、女は全く相手にしていない。
この洞察力が、なぜ妻には働かなかったのか。
満足していると思った。この歳になって、ひとりになるなんて。
このまま何処までも堕ちていくのか。
早く地面に到達してほしい。
自由落下の重力は、この歳にはつらすぎる。
目を閉じても眠気はやってこない。
やってこない。
彼女はやってこない。