ヴァイブレーション-1
「楽器の組み立て方とバラし方、そして清掃のやり方。ここまで分かったかな?」
セカンドクラリネット主席の秋本由衣(あきもと ゆい)が、小合奏室Bにあつまったクラリネット希望の新入生たちに語り掛けた。
経験者十七名、初心者十五名。このうちの四分の一もレギュラーにはなれないだろう。
コンクールには五十五名以内という規定があり、クラリネットはそのうちのたった十二名なのだから。
経験者だから有利、ということはない。入部時点での実力など意味がないのだ。コンクールなりコンサートなりのメンバー選出時の能力のみが問われる、シビアな世界だ。
実際、凛花のように入部時は全くの初心者だったのにたった一年でコンマスにまで上り詰めてしまうバケモノも存在するし、逆に伸び悩んでいつの間にかやめていった者も少なくない。
ちなみに由衣は中学からの経験者。超高速パッセージに代表される運指のテクニックでは凛花をすら凌駕すると言われる実力者だが、音楽性、とくに『色気』の部分ではどうしても凜花に敵わないでいる。それにはちゃんと理由があるのだが…早霧以外に知る者はいない。
「じゃ、これから実際に音を出していくんだけど…その前に一つ言っておきます。」
由衣が新入生たちをグルリと見回した。
「管楽器は吹けば鳴る、と思っている人が多いんだけど、それは違うの。管楽器で一番難しいのは指使いじゃなくて発音。音出しに始まって音出しに終わると言われるくらい、難しくて奥が深い。その事をしっかり頭に入れて下さい。いいかな?」
神妙な面持ちで新入生たちが頷いた。
「じゃあ、ここからは少人数のグループに分かれて、先輩に付いてもらいます。というわけでグループ分けなんだけど…。」
「彩音、来なさい。」
ザワ、っと空気が騒いだ。
新入生歓迎コンサートで実力を見せつけたコンマスの凛花が、いきなり指名した新入生。いったい何者なんだ、となって当然である。しかも呼び捨て。
「ちょ、ちょっと、凛花。その子はまだ…」
楽器の組み立てすら一人では満足に出来ずにいる彩音を、何でわざわざエースたる凛花が個人指導するのか、と言いたいのだ。
「この子はモノになる。体を確かめたから間違いない。」
「か、体って、あなた…」
由衣だけではない。その場の全員がイケナイ勘違いをしかねない発言だ。まあ、勘違いかどうかは微妙なところではあるが。
「行くわよ。」
スタスタと歩いていく凛花の後を、困惑の表情を浮かべた彩音が慌てて追う。
憧れの凛花に指名されたのは最高に嬉しい。しかし、これでは他の新入生たちに何と思われるか分からない。
彩音は、チクチクと背中に刺さる視線に耐えて、凛花の待つ練習室へと駆け込んだ。
「え!」
部屋のドアを閉めるなり抱きしめられた。
「呼吸。」
「あ、はい。」
凛花のお腹の動きに合わせて彩音も腹式呼吸を試みた。
スー、ハー、スー、ハー…。
それは、かつて凛花が早霧に呼吸法を習ったときのやり方だ。言葉や理屈ではなく、正しい呼吸を体で感じて模倣することにより、感覚として覚える。そうすれば、頭で覚えるのとは違って自然に身につくし、忘れない。
スー、ハー、スー、ハー…。
吸えば互いのお腹に押されて離れ、吐けば近づく。最接近時の二人の顔の距離は僅か数センチ。文字通り、息が掛かるほど近い。
スー、ハー、スー、ハー…。
ちなみに、密着しているのはお腹だけではない。当然ながら胸同士も押し合う形になっており、息を吐いて距離が縮んだ時は互いの圧力でへしゃげてしまう。
「いいわ。あなた、私の予想通り、いい素質を持ってる。」
彩音の顔がパァっと明るくなった。
「言い換えれば、今はまだ素質しかない。」
サーっと暗くなった。
「楽器、構えて。」
凛花がやって見せた通りに彩音も構えた。
「マウスピースの咥え方はこう。横から見て。」
パクっと咥えているだけではないのが横からだとよく分かる。下唇を内側に巻いてその上にリードを乗せ、上の歯をマウスピースの上面に当てて固定する。
「そのまま吹いてみて。」
プギィー、プフギィー…。
ヘンな音しか出ない。
「左手を出して。」
言われたとおりに出した彩音の左手の中指を、凛花がいきなり咥えた。
「え?え?」
しっとり湿っていて柔らかく温かい凛花の口の中の感触に、彩音は少し戸惑った。
「今の感覚、覚えて。下唇と上の歯で指を挟まれた時の感覚を。
「あ…はい。」
再び咥えられた中指に意識を集中する彩音。
「じゃ、次に同じ指を自分で咥えて。」
「は、はい。」
彩音は躊躇った。これでは間接キスではないか。
「間接キスとか気にしてたら管楽器は出来ないわよ。」
凛花はお見通しだ。
おそるおそる、といった様子で彩音は自分の左手の中指を咥えた。
「いい?唇の形も歯並びも一人一人みんな違う。だから、外見を真似ても意味がないの。でも、咥えられる側のマウスピースから見ればだいたい同じ。つまり、正しく咥えられた時の指の感覚を覚えれば、正しいアンブッシュアーになる。」
「アン…?」
「言葉は覚えなくていいわ。」
「あ、はい…。」
凛花に咥えられ、自分で咥え、を、彩音は何度も繰り返した。自分の口と凛花の口に、指が出たり入ったり。
「はい、その感じで楽器を吹いて。」
フブー…。
音が出た!
思わず彩音の顔に笑みがこぼれる。
「…イマイチね。楽器を置いて。」
そう言うと凛花は、彩音の右手の中指を咥えた。そして左の中指は彩音自身に咥えさせた。
「こうすれば、咥えられている感覚を左右の指で同時に比較出来る。」
「はい、確かに。」
咥えられ、咥え…。
「いいわ。楽器を持って。」
フボー…。
さっきより明瞭な音が出た。