第五話-7
途端に、伝一郎の背筋に冷たい物が走る。
「──貴様はそれでも、炭坑王と呼ばれた儂の息子か?炭坑(ヤマ)の大事に駆け付けんで、何とする心算(つも)りか。」
何かを云い返さなくてはと喉下迄出掛かるが、其れより先が如何様にしても出て来ない。気ばかりが焦ってしまう。
「斯様な白痴者に、儂の後を継がせる算りは無い。此の場で打ち捨ててやる。」
云うが早いか、伝衛門は手元に有った軍刀をわしと握り締め、勢い良く本身を抜いた。
業物の切っ先が、真っ直ぐ自分の喉下を捉えている事態は、流石の伝一郎と云えども吃驚(きっきょう)仰天させた。
よもや、命の喪失に拘わる話に為ろうとは、夢想だにもしなかったからだ。
「父様……。未だ、話は終わってません。」
それでも、伝一郎は己を奮い立たせ、伝衛門への諌言を続け様とする。
「──父様は、義母様が不義を働いている事を御承知か?彼の方は詮(せん)無き心の乾きを、情交に依って埋めているのです。
其れも、下男で有る香山に抱かれる事で、心の平静を保っていたのですよ。」
到頭、核心に触れてしまった伝一郎。したり顔を浮かべ乍ら、伝衛門が如何様な反応に出るかを窺った。が、其の反応は想像の範疇を超えていた。
「其んな事、疾うの昔に知っておるわ。」
「な、何ですって!」
伝衛門はそう答えると軍刀をゆっくりと降ろし、机の上に置いた煙草を咥えて火を点けた。
「──何より、貴子と※13同衾(どうきん)する様に命じたのは、此の儂だからな。」
伝一郎の心は、再び吃驚仰天した。
まさか、夫が妻の不義密通を※14按排(あんばい)するとは、俄に信じ難い。其れ程に常軌を逸する出来事と云えよう。
最早、伝一郎に、他の事など眼中に無かった。
「何故!?何で斯様な有り様に。」
息子の慌て振りに何かを感じ取ったのか、伝衛門はゆっくり軍刀を鞘に収めると椅子に腰掛け、背凭れに身体を預けた。
「事は、貴慶が亡くなって四十九日を済ませた頃だ──。」
伝衛門は既に、伝一郎を跡継ぎにする事を決めていた。が、貴子に其の旨を伝えると烈火の如く怒りを顕わにし、「妾の子は跡継ぎに非ず。」と、何としても子爵の娘で有る自分の産む子を跡継ぎにと、強張ったそうだ。
「──貴子は、其れでも良い。彼の頃で未だ、三十を僅かに過ぎた歳だ。何とか成ったやも知れん。だが、儂は既に五十五歳だった。疾うに男としての役割りを終えておったわ。」
「だから、義母様の寂しさを紛らわす為、香山を使ったと云う訳ですか。」
嫌悪の情が催すとは、正に此の事!──。男としての※15不佞(ふねい)で有る事を誤魔化し、盛りを迎えた妻が望む情交への欲求と、正気を失わせ無い為に下男を宛がい、己は一切に背を避け、一向(ひたすら)、事業だけに邁進して来たとは。
「──炭坑こそ我が使命の様な口振りが、聞いて呆れますよ。妻の平静さえ自分では儘なら成らず、汚れ仕事は全て下々の者に委せて来たなんて。」
伝一郎は嘲りの意を含ませ、伝衛門に迫った。
「仮に、子供でも出来たら如何為さる御算りなのです。」
伝衛門は、咥えた煙草を一口を吸い、灰皿で揉み消すと、其の口を開いた。
「その心配は要らん。香山は、端から子種を持たぬのだ。」
話に依れば、香山は幼少の頃の事故で、陰嚢(いんのう)を失っているそうだ。
「──しかし、仮に子供が出来たとしても、其れで貴子の正気が保てるのなら、儂は、其れでも良いと考えておる。」
「何ですって……?」
詰まりは、全てを承知の上で、貴子と香山の不義を認めていたと云う事か。
「其れで、貴様はどうなのだ?何の苦労も無く、衣食足りて学業に専念出来るのは、儂の庇護が有ってこそ。斯様な半端者が儂に説教とは、滑稽至極で有ろうぞ!」
再び、伝衛門の眼に、夜叉の如き禍々しさが宿る。傍らに置いた軍刀を掴んで本身を抜いた。
「御託を彼是と並べる前に、壹圓でも己の力で稼いでみせい!此の痴れ者が。」
伝衛門は、脱兎の如き突進を見せた。
その動きは伝一郎の想像以上で、退くのが一瞬、遅れてしまった。
「ぐあ!」
伝衛門の振り翳した一刀が、伝一郎の背中を袈裟懸けに伐(う)ち降ろす。伝一郎は激痛に奇声を叫び、其の場に頽(くずお)れて突っ伏した。
「安心せい……。峰打ちじゃ。」
伝衛門は肩大きく息をし乍ら、平臥(へいが)足る息子の顔を覗き込む。伝一郎は、既に卒倒していた。
峰打ちとは云え、右肩から左脇腹に掛けてシャツの生地は破れ、露わに為った肌は赤黒く腫れ上がり、一部は血が滲んで見える。
伝衛門は、机の傍に据え付けられた電話交換器で香山を呼ぶと、伝一郎を地下の折檻部屋に閉じ込めるよう命じた。
「全く……。仕様の無い奴じゃ。」
誰も居なくなった部屋で、伝衛門は煙草に火を点け、再び椅子に身体を預けた。
その相貌は苦悩に充ちているかと思いきや、以外にも、晴れ々としていた。