第五話-4
先程、鐘の音が五時を報せていた。
香山の迎えが来る迄、残り一時間足らず。伝一郎と夕子は舟宿を後にすると、女給への土産物を手に入れるべく、ミルク・ホールへと向かった。
しかし──。
「で、伝一郎様。もう少し、ゆっくりと。」
時を追って、夕子の下腹の痛みが甚だしく為り、先を急ごうにも難しい様子と為った。
夕子を支え乍ら、伝一郎は辺りを見回した。
(何処かに甘味処か茶屋でも有れば、其処に夕子を休ませて、自分一人、ミルク・ホールへ走って行くものを……。)
しかし、街外れの川辺付近に茶屋らしき物など有ろう筈も無く、ずっと田圃が続いている。
「伝一郎様。あれ。」
そんな最中、夕子の指差す方向に目を向けると、夏風に旎(たなび)く稲葉の間を、赤蜻蛉(とんぼ)が飛んでいるではないか。
※5常磐色の海原を泳ぐ様に進む※6丹色の情景は、二人の顔を自然と綻ばせた。
「へえ。赤蜻蛉か。子供の頃以来だな。」
「此処ら辺では、あれが見えると秋も近いと云う合図なんですよ。」
「成る程。先人の知恵と云う訳か。」
「一月もすると、田圃の土手一杯に彼岸花が咲いて、とても綺麗なんです。」
そう云って、夕子は目を輝かせる。
本来なら、悠長に構えていられる事態では無いのだが、夕子の言葉が有ればこそ、伝一郎は幼少期を懐かしむ事も出来た。
そう云う意味合いに取れば、彼女の行いは一服の清涼剤と云えよう。
伝一郎は、田圃に目をやり乍ら、一節詠んだ。
※7 おもひでの山
おもひでの川
石をもて追はるがごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
「啄木……。ですか?」
「さすがは才女だな。此の情景を見て、ふと、浮かんだんだが……。尤も、此の詩は、故郷を懐かしんでいる詩じゃないけどね。」
そんな伝一郎の解釈に、夕子は異を唱える。
「いえ。逃げる様に離れなければ為らなかった故郷だからこそ、子供の頃の思い出は、只一つの物だったと感じたのでは?」
「成る程ねえ。面白い見解だな。」
啄木が生前、放蕩三昧を繰り返す“出来損ない”だった事は有名な話だが、それを述べて論戦を繰り広げるのは些か、大人気無い態度と云えよう。
詩を如何様に捉えるかは人其々(それぞれ)で、答えは一つでは無いのだ。
「──ちょっと、先を急ごうか。」
二人は、再び、緩々と歩き出す。日は漸く、黄昏時を迎え様としていた。
「其処の民家で、待たして貰えるか訊ねてみよう。」
歩き出して暫く経った頃、漸く、百姓家と思(おぼ)しき藁吹き屋根の家に出会した。
緩々と庭を訪れると、後ろの方から牛の鳴き声が聞こえて来た。
屋敷の入口に牛舎兼納屋が位置し、旁らには鶏小屋も見受けられる。家に目を向けると、屋根の明かり取りから煙が出ているのが見えた。
どうやら、家人は自宅に居る様子だ。
「一寸、此処で待っててくれ。」
伝一郎は、夕子を軒先の縁台に腰掛けさせ、家の中へ赴くと家人に諸事情を説明し、助けを求めた。
果たして、家人は快く引き受けてくれ、伝一郎は安心して夕子1人を縁台に残し、ミルク・ホールへの往路を急ぐ事とした。