耀子-2
「ちょっと店の雰囲気を壊してしまったかな。しかし僕は酔っ払った時は大声でこれを歌うんだ。少々音程が外れても感情を思い切り入れて怒鳴るように歌うと結構酒場で歌う歌みたいになると思っているんだが人はそう思ってくれないかも知れないな」
「・・・」
「どうした? 聞き苦しくて他所の席に移りたくなったか?」
「いいえ」
「おっ。泣いているのか?」
「はい。泣けちゃって」
「それは済まなかったな。まさかそんなに真面目に聞いてくれるとは思わなかったんだ。慰めるつもりが逆効果になってしまったか」
「いいんです。でも、この曲なら知ってます」
「そうだろう。聞けば大抵の人は知っている筈だ」
「大学の寮歌って何ですか?」
「ああ。まあ、昔は大学に寄宿舎があってそこで学生は暮らしていた時代があるんだ。今のように民間のアパートはそんなに沢山無かったし、あっても高いから地方出身の学生の為に大学がそういう施設を安く用意していたんだね。そこで暮らしている学生達が今で言うコンパだけれども、何かと言うと一緒になって飲んだり騒いだりした。そしてその時に最後を締める歌として必ず歌われるのがさっきの歌なんだよ」
「何処の大学ですか?」
「中央大学」
「すると先生は中央大学の寮にいらしたんですか?」
「いやいや。中央大学に行ったのは確かだけど、僕の頃は既に寮なんて無かった」
「そうですか。でもそうすると実際に学生時代に歌ったりしたんでしょう?」
「歌ったね。僕は写真部に入っていたんだけども、そこで飲み会なんかすると必ずこれを歌うんだ」
「それじゃ思い出の歌なんですね」
「そう。あんまり楽しい思い出は無いけれどもやっぱり思い出の歌には違いないな」
「それであんなに思い入れが入っていたんですね」
「いや。お恥ずかしい」
「そんなことありませんよ。私、上手い人が聴く人の反応を見ながら余裕たっぷりに歌うより少し下手でも自分に酔ったように一生懸命歌う人の方が好きです」
「嬉しい事を言ってくれるなあ。嘘でもそんな風に言ってくれると嬉しいね」
「嘘じゃありません。聞き惚れて泣いてしまった程なんですから」
「そうか。まあ、それはお爺ちゃんが亡くなったばかりだからなんだろうけど、それでも嬉しいね」
「先生は作家だと言うのに偉ぶったところが全然無いんですね」
「そう言えば何時の間にか君は僕を先生と呼んでいるけれどもどうしてかね」
「だって作家なら先生でしょ」
「そういうもんか」
「先生と呼ばれるのは厭ですか?」
「以前は厭だったが、もう慣れた」
「どうして厭だったんですか?」
「昔、三好達治という詩人がいてね。老眼鏡で本など読んでいるから人は私を先生と呼ぶんだけれども、私は何を教える人でも無いし能無しの役立たずに過ぎないという詩を書いている。三好達治のような文学史に残る人でもそうなのだから僕のような資源の無駄遣いが先生であっていい筈がないと思った」
「先生はやっぱり詩なんかお読みになるんですか?」
「まあ、昔は好きで良く読んだね」
「やっぱり作家になるような人は違うんですね」
「何が?」
「私は小説も滅多に読まないけど、詩なんて読んでも分からないから読んだ事ありません」
「読んだ事なければ分からないじゃないか」
「いえ、1回や2回は読んだ事あります。学校の教科書にも何か載っていたと思うし」
「なるほど」
「先生の書いた物を今度読んでみたいな」
「僕の? 駄目駄目」
「どうしてですか?」
「この店に女が一人で入ってきたら君はどう接待していいか分からなくて困ってしまうだろう? 僕の書く物は男性専用だから女が読んでは駄目なんだ」