君と僕との狂騒曲-11
誰にも何も言わずに制服に着替え、鞄を持つのも忘れて中学校の西口から出ていった。誰かわからなかったが、呼ぶような声が聞こえて来たことは覚えている。林を横切る近道を使って、錆びついた鉄条網に制服の肩を引っかけた事も。信号を見ないで道を渡ったこと、足下の煉瓦道が所々欠けていたこと。誰も居ない家に入ってから、しばらくは何も考えていなかった。「考える」なんて、どうやってするのか解らなかった。
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僕は自分の部屋で、頭をかかえてベッドに倒れ込んだ。常軌を逸した想像に振り回される僕は、胸が張り裂けそうだった。苦しくて、すごく切ない感情が溢れ出して気が狂いそうになる。君の美しい腕や爪、手の表情が、すらりとした美しい足が、君の全てがジェット・コースターのように心の中に駆けめぐる。
君の薄くて美しいピンク色の唇が、ざっくりした輝く髪の毛が、君が隠す全てのものが欲しかった。その夜から、君の身体にある魅力が僕の睡眠を奪ってゆく。もう君に逢うのが怖かった。勉強もデッサンも、読書でさえこのくそったれな妄想を止めることが出来なかった。ただ悶々とベッドの中でのたうち回るだけ。
僕はもう自慰の経験者だったし、女の子の身体を夢見ては楽しんでいた。でも、こんどのそれは違う。もっと深くて、蒼くなるほどに遠い。
僕は何度も何度も自慰した。大量に手のひらを濡らす精液に自分でもあきれた。一回出してしまうと、しばらくの間は安らかになる。でも、最初の数時間は一時間になり、30分になり、やがて枯渇して自分で自分を掻きむしった。なんとかしなければ、僕は、もしかしたら死んでしまうのかも知れない。そんな時には必ず使い魔がやってくる。僕の耳元で小さな声で何かをうたうのだ。
僕はふと閃いた。苦痛だったらどうだろう?苦痛だったら考えることが出来なくなるんじゃないか。普通じゃない、とても苦しい痛みを。
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当時の剃刀は両刃のシンプルな、なかなか美しいかたちをしていた。僕は洗面台から父が使う一枚の剃刀を抜き取って部屋に戻り、服を脱いだ。なにもかも。
「その瞬間」を見ることは何故か出来なかった。意外なほど簡単に剃刀は僕の左腕を垂直に滑るように沈んだと思う。
目を開けて見ると、すっと引かれた傷に丸くプツプツと浮かんでくる赤い血が膨らんでいた。気持ちよかった。少しも痛くないのに、血だけが流れてゆく。でも、これじゃ駄目なんだと思った。もっと痛くて苦しいものじゃないとだめだと思った。
煙草。これは熱かった。激痛と言っても良かっただろう。僕は長時間持つロングピースを買って、一服付けて大きく吸い込み、火を大きくした。くらくらとニコチンが身体中に染み込んでゆく。
そしてゆっくりと、火は僕の胸を焼いていった。そして腕に、足に、特に太股に。苦痛がもたらす素晴らしい恍惚感。それは僕を唯の肉塊に変えてゆく。ただの、汚らしい鴉の腐った肉。爛れた痛みを掻き消すように僕はギターを弾いた。それは酷くスローなブルースだった。未来において「泣きのケンピ」と呼ばれることになる、心をえぐり出すような旋律と激しく切ないビブラートの断片。
それが僕の暗黒の扉だとはまだ気が付いていなかった。
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前にも書いたとおり、僕の友人は多かった。いや、多すぎた。これは今でも変わらないのだけど、友人のほうは僕を知っているのだけど僕が覚えてない、というケースがすごく多い。本当にカケラも覚えていないのだ。
友人から紹介されて、挨拶をして、つまらないなあ、と思ったらもう翌日には綺麗さっぱり忘れている。キャパシティが極端に狭いのだ。(無意識に忘れようとしているのかも知れないけれど)だから、僕が覚えている人間はほとんど間違いなく親しい友人だ。この退屈な話を読みに来てくれる人のほとんどが「親しい友人」である。君たちに祝福を与えよう。ありがとう。
その頃、毎日家にやって来て、遊びに連れ出そうとする奴もいた。忙しいからとか、塾に行かなければならないだとか、色々な言い訳で逃げるのだが、あんまりしつこい奴には「絶交」を言い渡した。実際、かなりの友人を切り捨てた。13歳の僕はボーイスカウトとデッサン、油絵で多忙な上、読書とプライベートな問題でそれどころじゃなかった事もある。他の連中がどう思っていようと、無駄な付き合いに一秒だって奪われたくなかった。僕は「僕というかたち」を切り刻んでいる最中だったから。