碧のカード──高橋昭八の孤独-1
高橋昭八ことショッパチは実は料理が上手い。少なくとも平均的な主婦よりは数段上だ。買い物のチョイスも弁当作りも無駄が無く正確で、煮物一つとってもジャガイモとニンジンをいっぺんに煮込んだりしない。全ての材料が相応しく均等に煮え上がるように細心の注意を払う。早起きなのも加えて、料理と家族全員の弁当は全て自分で作る。
料理が苦手な代わりに自分より収入が上の妻のためでもある。休日には愛する娘に料理を教えている。教師である前に家庭人なのだとショッパチは思う。
それがなぜこんな事にまきこまれたのか。
基本的に自分は断れない人間なのだと改めて思い知る。ましてや恩人の死を賭した願いであるのなら断れるはずもない。
使い込まれた古い机の上の、碧い箱と一冊の薄汚れたB5版の灰色の大学ノートを見つめる。
私立黎明学園は珍しく、教師一人一人に「教授室」が与えられる。これは生徒との交流を深めると共に、教師自身の研鑽への配慮でもある。和室にして六畳ぐらいのささやかな物だが、学内の一つのビルの半分を占有するだけに、かなり贅沢なものだろう。
この箱の元の持ち主は数学担当で、選択科目の哲学の教師も兼ねていて、カントを教えていた。随分と古くさいが、「証明問題」を解き明かすには最適の選択だった。
彼は不治の病に冒され、入院したら帰らぬ人となるターミナルケアに入る前日、ショッパチにこの碧い箱とノートをショッパチに託した。
勿論、正直言って迷惑だった。彼から聞いた奇妙な世界観の話も眉唾物だった。
しかし、流石に年季の入った教師に相応しく、例え話にした説明は見事と言う他はなかった。現代国語という理系には疎い彼にも理解は容易だった。
曰く、世界をチェスの盤面に置き換えたのだ。
まず、暗闇にチェスの盤面を置く。これが世界の容器だと言った。そしてその中心に蝋燭を一つだけ灯す。これを「ソラリス」と呼ぶ。彼はショッパチがSFのファンであることを見抜いていたのだろう。スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』から引用したのは明らかだ。それとも元からそのような名前だったのか、今は知る術もない。
とにかく、この「ソラリス」の回りにランダムにポーンを無数に並べる。それが「宇宙」だと理解しろと。そしてそのポーンの駒一つ一つが独立した「世界」なのだと。
そこからが問題だ、と彼は禿頭の舌の分厚いレンズを輝かせて笑った。つまり、「ソラリス」に近い「世界」ほど明るく、その代わりに深い影を落とす。遠いほど暗く、影の輪郭も滲む。そして、「影は必ず交差して交わる」と言った。つまり、影は全て繋がっていると。そしてその影を「歩く」事の出来る人間が居ると。そして彼は厳かに言った。
「残念なことに、創立以来この黎明学園にも存在するのだ」
そして、カードの何枚かを見せた。そこには聞くまでもなく、新しく担任に就任した自分のクラスの生徒としか思えない姿が精緻かつ象徴的に描かれていたのだ。
「このカードの使い方というか、『管理』の方法はこのノートに書いてある。出来ればそれを開くことがないように祈るがな」
改めてその碧い箱を見下ろす。分厚いボール紙で作られたその箱は擦り切れていながらも美しかった。まるで秋の夜空のような透明な碧。意を決して蓋を開け、カードを手に取り、一枚づつめくって行く。殆どのカードにはカードの下部に描かれた帯に名前は書かれていなかったし、古ぼけていた。数枚のカードを除いて。
手にした一枚のカードは、薄い碧眼のこの世の物とは思えない妖精のような装いの少女が描かれている。アルカイック・スマイルを浮かべたその背中には大きく拡げられた天使の羽根。水色の薔薇にアールデコ風の装飾に彩られている。下部の翻る帯には「堕天使」と大正時代に描かれたような独特の書体が刻まれていた。
「……白石由子、か。確かに見たとおりだ」
次のカードは黒と銀の幾何学的な模様の中に、個性的な吊り目をヒステリックに引き攣らせ、目の焦点が合っていないような微妙な表情を持つ口髭の男。ピンストライプのスーツの片手に重々しい小槌を持つ。帯には「裁者」。
「このままでは留年するぞ…成績は抜群なのだが、ここは学校だ。沓水洋」そしてもう一枚。
森と白い柵に囲まれた牧場を背に佇む大男。髭の濃い顔は優しい微笑みに満ちている。朽ちたような箒を携え、今にも掃除を始めそうだ。帯に刻まれた名は「村長」。牧歌的な背景に相応しい農夫の服装をしている。
「ひょっとしたら、お前は三代目なのかな? 照井達也」
ショッパチは悲しそうにもう一枚を手にする。他のカードは背が全て透明で深い碧一色なのに、このカードだけは何故か白銀に輝いていた。
無数の燃えさかる岩壁に突き立てられた刃が鈍色に描かれたカードに浮かぶのは、下目使いに不敵に笑う猛々しい筋肉男。乱れた髪の毛に長い無精髭が一層その獰猛さを露出させている。「暴君」の二文字までどことなく凶暴だ。ショッパチはふっと苦笑いをする。
「なぜ、このカードセットに混ざっていて、何故三ヶ月で退学したのか。その理由はこれかも知れない。出来るなら仲良くやって行きたかったのだがね」ショッパチはそのカードを静かに伏せる。
もう一枚はただひとつだけ金の細工がなされた限りなく碧い背景に、美しい少女のような桜色の口唇を持つ少年。貴族のような衣装を纏い、左目は漆黒に輝き何故か右目は渦を巻く虹に彩られている。背中には獰猛な印象を与える蝙蝠に似た羽根。巻かれた帯に浮かんでいる文字は「吟遊詩人」。
「はっきり言って、お前は俺の手に余る。何者なんだ、天羽詩音よ」
最後に選んだカードをちらりと見て、ショッパチはすぐに伏せた。
「知らなくても良い。むしろその方がいいだろう」
机の上に並べられた六枚のカードを見つめ、長く重たい吐息が漏れる。そしてあの数学教師の言葉を思い出した。
「生徒の可能性を信じるのは教師の義務だよ」