廃屋の天使の腕──眼赤視の歪んだ愛情-1
その廃倉庫はガラスの破片にまみれている。他にも週刊誌のなれのはて、錆び付いた古いスチール缶や正体の知れない様々なオブジェに彩られていた。所々崩れているとはいえ、塀が倉庫を隠しているのは、主にこの惨状のせいもあるのだろう。
そのさらに奥、倉庫と塀の間の五十センチ程の暗渠を眼赤視は歩く。いつものように洗いざらしたTシャツに擦り切れたダメージド・ジーンズだが、目立つ赤毛を黒いソフト帽で隠し、麻のくたびれたバッグを斜に提げている。暗い倉庫のさらに影になった所に、古びた曇りガラスが浮かんでいる。近づかなければ森か土砂にしか見えない廃屋だ。
殆ど役に立たない割には無骨で頑丈な鍵を開けて、扉を開ける。家自体が歪んでいるのだろう。ひどい軋みが小さな玄関を襲う。上がりかまちから向こう側の短い廊下も、開け放たれた一室限りの部屋も、土足と言うよりは長靴でも履いた方が良さそうな状態だ。
唯一の窓から、この時間になると差し込む西日が眩しい。その陽射しをさらに嫌うように奥に黒い、何度もペンキを塗り直したような古い傷んだドラム缶が転がっている。そのそばには何故か真新しい大きなスポーツドリンクに長いストローが付いたものが転がっていた。
「傀儡、入るよ」
眼赤視はスニーカーのまま部屋に上がる。真ん中に半畳ある、典型的な四畳半だ。天井から電球がぶら下がっているが、割れている。
眼赤視は何本ものスポーツドリンクを片付け、麻のバッグから新しく大きなスポーツドリンク三本と遮蔽された大きなガラス瓶一つをドラム缶の穴の開いた方に置いた。スポーツドリンク一本の蓋をねじ切り、長いストローを差し込み、バッグから紙片を取り出して、ガラス瓶の蓋をこじ開ける。その中から、黒い錠剤を掌一杯に掴み、紙片の上に乗せた。
眼赤視は正座してそっとドラム缶に手を添えた。
「傀儡、ごはんだ」
そして待つ。じっと待つ。十分ぐらいで、ドラム缶の内側から何かが蠢き、衣擦れの音が聞こえた。太陽の角度が変わり、割れた姿見に光が反射してその「食事」を照らしている。そして、指が、掌が、最後に腕が現れる。
金色の蛍光塗料という物があれば、まさにその腕の表面がそれだ。細く、例えるなら八歳ぐらいの剥き出しの幼い腕。薄目にしてよく見れば、微かな金色の産毛が光り輝いている。爪は薄桃色で、根元に半月のような美しい白みが描かれていた。その掌が、錠剤を掴み、ゆっくりとまたドラム缶の闇の中に消えて行く。それから、咀嚼音が響く。くぐもって鈍い響きが部屋の中にこだまする。どこか厳かな感じがするのはどうしてだろうと眼赤視は思う。
やがて喉を通るごぶり、という音と共に、再び金色に光る白い腕が現れ、スポーツドリンクを掴む。引きずるようにしてスポーツドリンクがドラム缶の中に消えて行き、今度は液体を啜る音が聞こえた。
スポーツドリンクが再びドラム缶の上に現れ、その手が離れようとしたとき眼赤視が動いた。腕を、抱きしめる。自らの白いTシャツを捲り上げ、ノーブラの露出した張りのある美しい乳房に腕を挟む。肌と肌が触れあい、冷たい腕に眼赤視の体温が染み通って行く。
「ああ、傀儡。傀儡、あなたの声が聞きたい。いつも聞いている心の声じゃなくて、あなたの肉声が聞きたい。聞けるなら、一度でも聞けるなら腕の一本だって惜しくない。聞かせて、あなたの声を。甘くて優しいの? 擦れてか細いの? 野太くて逞しいの? 黄金のトランペットみたいに麗しいの? 聞かせて、あなたの声を」
眼赤視の深紅の瞳から流れ出た涙が傀儡の腕に垂れる。傀儡の腕からは完全に力が抜けている。眼赤視はくびれた美しい腰に、下腹に胸と首に傀儡の腕を喘ぎながら擦りつける。眼を閉じた眼赤視は歓喜に打ち震え顎からは涎が垂れ、白目を剥いて激しい吐息が部屋を満たした。
陽は傾き、傀儡の腕と眼赤視を暗い部屋の中で紅く染めて行く。