パープル・ヘイズ──白石由子とレインの遭遇-4
その途端、カウントも無しに突然火山が噴火した。地響きが押し寄せ、鳥の叫び声が聞こえる圧倒的に広いレンジでステージが爆発する。鳥肌が背筋を、腕を這い上がる。瞬きすら許さない強烈なスリル、これは本物のロックだ。
ギターはテクニカルと言うよりアタックの強いノン・エフェクターのファットかつピーキーな、ドライブする本格派。ドラムはジョン・ボーナムタイプのヘビーなビート重視で正確かつ凄みがある。でも、でも。でもでもでも!
こんな凄いベースは聞いたことがない! アンプのスピーカーを完全に鳴らしてチューブを限界まで引っ張り、自然にファズる時に出る高音とボトムになる圧倒的な低音とアタック感。一見無茶に見えるスケールも決めるときにはメロディーに乗っている。しかも小節の頭に三度の音を発声してから八分の一で主音にぶつけるなんて。敢えて言うならフェリックス・パッパラルディに近い。相当音楽理論を極めてないと出来ないはず。それとも天性の資質なのだろうか。気が付いたときにはステージの目の前に立っている自分に気付く。完全に魅了された由子は、初めてレッド・ツェッペリンを聞いた日のことを思い出す。フィニッシュは引っ張ったものではなく、あっけなくストンと終わった。ただクラッシュ・シンバルの残響だけが残っている。
間を置かずに始まった曲はミディアムテンポのメロウで、ベースのメロディラインがひときわ美しく際立つ。夢見を誘うようなセクシーで切ないコード進行が、ラブソングであることを主張している。
由子がうっとりとリズムに合わせて身体を揺らしていると、後から突然の喧噪が湧き上がった。電源の落ちるショッキングなノイズ。振り返ると、群青に銀の線が並んだ制服を纏う兵士が雪崩込んで来る。この世界の「弾圧」というやつだろうか? それでもステージを振り返る。ステージセットの中には「あの」ベーシストが居ない! 何者かに二の腕を強い力で握られた時、後でピアノを大音響で連打するような音が爆発する。そしてそれが引き金になったように、再び目の前が真っ暗なブラインドになり、紫の閃光が由子に襲いかかった。
「パープル・ヘイズ」。墜落感に伴う焦燥が身体を駆け巡るが、何かを掴もうとする。追いかけようとする。逃がさない! お前は私の物だ! 絶対に逃がさない!
帰還は落下感はなかった。コンクリートの腰と背を預け、眠りから醒めたような感覚。でも、まだ躯が熱い。あのビートとメロディーとフレーズが頭の中を走りまくっている。
頭を振って、腕を床に突っ張る。ここは知っている。私のマンションの階段の踊り場だ。エレベーターホールに向かわずに階段を駆け上る。金色に光る巻き毛にピンクとラベンダーのメッシュが踊る。
由子は自分の住むマンションの他に二つのマンションを持っている。そのうちの一つは防音処理を施したスタジオだ。外は日暮れ。メンバーが集まっているはずだ。
乱暴にドアを開けてスタジオに駆け込む。そしてフェンダーのプレジションベースを持ったくせっ毛の少年に向かって叫んだ。
「あんたクビ! 荷物を持ってすぐに出て行って!」
「…出て行ってって、どゆこと? 来月のギグ、もう詰めなのに」
「うるさいうるさいうるさい! もう世界で一人だけを除いて誰のベースの音も聞きたくないの! あんたがロジャー・ウォーターだってお断りよ。ジョーン・ジーだって嫌!」
「それ、褒めてくれてんの? ひひひひ、嬉しいなあ」
「あんた、もともとマゾでしょ! 悦ばせてたまるかってんの!」
強引に背中を押された少年はにやにやしながらドアから蹴り出された。由子は背中をドアに当てたまま、肩で息をしている。
「ははあん、なんか見つけたな?」
ドラムのケイスケが小太りの身体を揺らして笑っている。
ケイスケはドラマーだが、電気的・電子的なことが専門だ。シールドの断線から始まってコンデンサの交換、シンセサイザーのサンプリングのループ生成、コンピュータのメンテナンスから「廻天百眼」のHPまで幅広くカバーしている、バンドには不可欠の存在だ。悪戯っぽい上目遣いで、ハイハット・シンバルを開閉しながら由子に話しかける。
「おめえがよお、そんな風になるってのあ「あまね」見つけたときと同じ目をしているのよ。いや、あの時よりテンション上がってるかな? とにかくなんか見つけたんなら連れてこいよ。正直、あのベーシストにゃイラついてた所だ」
「勝手にしろよ。どっちにしたって俺ら発言権なんてないんだから」
針金のように痩せた男がオベーションのアダマスに付けたチューニングメーターを凝視しながら吐き捨てる。
「アキラよお、おめえの表情は全然読めねえんだから、賛成なのか反対なのか言葉で言えよ」
茶髪で巻き毛の隙間から、目を瞑っているとしか思えない極端に細い目の男がケイスケの顔を伺う。
「じゃあ、賛成でいいや」
「ったく、捨て鉢な野郎だぜ。あまねはどうなんだよ」
「………僕に聞かれても…」
カーツウエルPC3K8の二段重ねにローランドのVK88を90度に構えた、美少女にしか見えない少年が肩までの輝く黒髪を揺らして首を横に振る。鍵盤の腕は天才的だが、意志の弱さで女性ファンより男性ファンの方が圧倒的に多いという、誠に残念な悲劇に見舞われている彼が自己主張したことはない。言葉ではなく音で物を語る少年、それが内藤あまねという少年だ。
ようやく由子は息を整えると、メンバーに向かって宣言した。
「最っ高のベーシストを見つけたから、とっつかまえてくる。それまでは基本練習と、アキラの作曲。ベースが光るとっておきのを頼むわよ。バリバリに暴れられるやつ」
由子は紅に染めた頬を隠そうともせず、人差し指を突き出した。
「ぜっっったいに連れてくるから!」
「やれやれ」ケイスケがスティックを軽くロールさせて笑う。
「お姫様のお好きなように」