黎明学園の朝礼──罵倒と猜疑に満ちたスケッチ-2
伊集院は広げた手を小刻みに振って否定する。何しろ由子は人気バンド「廻天百眼」のボーカリストだ。どこかのコンサートで無駄に危険な暴露をされかねない。
「……確かに笑い話じゃないよ、ないけどね、俺には。でも知らない人間にとって『歩く性器』は面白いかもな」
「違うじゃねえかよ! 違うじゃねえかよ! それじゃ全員それじゃねえかよ! 俺別に外に出してねえし」
「歩く成啓? 吉祥寺の北の大学付きの学校だっけ?」
「そ、そうだよ! 成啓に俺の知り合いが居て、そいつが困った奴でな、その話なんだよ!」伊集院は危機から脱出した心の安堵を露わにして、由子に笑いかけつつ超薄型ノートでパタパタと汗ばんだ顔を扇ぐ。
「その成啓からもクレームが来ているんだけどな。これ以上の他校の女生徒に対する狼藉は俺の手じゃ押さえきれない」
けたたましい伊集院と醒めた照井を前にして、由子は窓硝子の横の机に座り、あろう事か片足を机に乗せた。
「ぶっ。由子手前ぇなんてかっこしてんだよ! 見えてんだろうが! 丸見えだろうがそれ!」
「…『それ』って何よ。具体的に物質的に弁証法的に恣意的に説明して欲しいわね、優等生の伊集院君」
「おま、ショッパチに感化されてんだろ、今時安保闘争するなよ! 日本はアメリカの言うこと聞いてればいいの。原発も基地もアメリカさんの物なの! …それよりお前、足下ろせ!」
由子はにやりと笑い、一度さらに高く持ち上げて十二星宮のキャラクターの数を増やしてから上履きを床に下ろした。
(丸見えだよ、皺のひとつひとつまでぴったりフィットだよどうにもならねえよ)伊集院が一人悶々と頭を抱えている。
由子はふと二階の教室から校庭を見下ろした。普段ろくに掃除をしないから曇っている窓を掌で拭う。黎明学園は生徒に自治権を持たせるために生徒会という言葉はなく「自治会」と言う制度で自らを律している…事にはなっているが、その分掃除や当番などという物がルーズになりやすいのだ。
「あいつ…自治会長じゃん」
由子が視線を向けた先の校庭では、長身の髪を長く切りそろえた女生徒が何か他の生徒に指図しているようだ。この距離からでもその日本的な際だった美しさが見て取れる。
「三浦先輩だろ。三浦の爺ちゃんは俺の爺ちゃんとも付き合いあるぜ」
「あのクズ女と? 頭腐るわよ」
「前から由子は先輩が気にくわないみたいだな」
「あったり前よ。あの女、音楽室でクラシックと校歌以外の物は演奏も視聴も許さないってたのよ。超ハラ立つ骨董品の埃被った置物の時代遅れのブラウン管女」
眉を寄せて怒りを表しても美しさは損なうどころか増す。その骨が存在しないような体つきと顔立ちが凄絶な粒子を発散する。
「先輩、美人じゃんか。和風だけどそそるよ」
「そそるな!」照井が大きな手を机に叩きつけた。
「そういった一つ一つがだな、お前の発情機関の回転数を上げている事に気付けよ」
「俺、蒸気やガソリンで動いている機械じゃねえぞ」
「ああ、始末に負えない白い粘液だろうが伊集院の場合」
「コンデンスミルク?」あくまであっけらかんとした由子。
「そ、そうだよ! 俺コンデンスミルク大好きで夏には氷に大量にぶちまけてがぶがぶ飲んじゃうもんね」
「出しているのはお前自身だろう」
「いーかげんにしないかっ! それダウト! 下品だろ貶めるなよこの教室を!」
「お前がほとんど一人で貶めているじゃないか。せめて一週間に一度ぐらいにしろよ。一日に二回三回という度し難い過剰な遊びは禁止する」
「俺の倦怠期はまだ20年は先だよ!」
「じゃあ20年ほど時間を遡ってくれ」
照井と伊集院の間に限りなく滑稽で険悪な空気が流れる。
「ジュール・ヴェルヌだっけ。古いねえ」由子はあくまで何事にも淡泊であることを証明すると、二人の男は下を向いて絶望的にため息をついた。
「おはよう、同士達よ。全員自分のセクトに戻るように。テリトリーへの侵入及び占拠の恐れがある場合はあらかじめ理論武装し対抗手段を考慮しておくように」
両耳の横にある白髪をなでつけた、強度の眼鏡をかけた中年男が教室に入ってきた。着崩したスーツが痛々しいのはその実に痛い人生経験からだろうか。高橋昭八、現代国語教師にして黎明学園10年1組の担任でもある。愛称は「ショッパチ」。捻りもなにもない。若い頃過激派の副委員長で鳴らした経験で言葉遣いがいちいち革命的に偏向する。
「これより定時集会を行う。まずはその存在の有無を立証して貰おう」
黒い出席簿を舌で濡らした指で捲ったとき、窓際の空間から滲むように灰褐色のマントが翻った。
「……土俵際の魔術師だな。そういう闘士が昔にも居たものだ。その名を借りた詐欺師がな、天羽詩音」眼鏡の奥の眼が光った。
「僕は時間にはわりと厳しいんですけどね?」水晶のようによく響くハニーボイス。帽子を取り、その後を編み込んだ暗灰色の髪の毛が露わになる。マントを外して旧米海軍のぶかぶかのシャツだけになると、かえって華奢な体つきが目立つ。首が折れそうに細く、瞳と口唇が光り輝いた。
ショッパチは特に気にせずに出欠をとり続ける。
「ふあい」「あ〜」「ういっす」「はい! おはようございます!」
黎明学園は個性を尊重するので、生徒達のテンションに極端な波がある。高橋昭八は慣れたもので、特に気にしても居ないようだ。
「沓水は……相変わらず忙しいか。留年へのカウントダウンはいよいよヒューストンに近づきつつある。誰か会ったらその旨を伝えてくれ」
照井と由子が心持ち背筋を伸ばし、詩音はさりげなく漆黒の左目を教師に流す。窓の外は青々とした木々が風に揺れ、黎明学園の一日が始まろうとしていた。