僕は14角形ーCracked pieces A-1
夏の熱気は夜になっても終わらない。表参道の喧噪の裏道のことさらに解りにくい路地にあるコンクリート打ちっ放しのビルには窓はなかった。
空は沸き上がった蒸気にぼんやりと「街の灯」が澱むように停滞し、晴れなのか曇りなのか全く解らない。ビルの階段を上るうちに、温度は嘘のように低下した。気分が良くなったのか、その細く華奢な影は極めて軽いステップで階段を苦もなく駆け上った。
突き当たり。コンクリートに強引に打ち止められた鋲と金具、そして黒檀の重そうなドアに一点、輝くばかりの金色に光る鯨を模したシルエットのプレートが打ち込まれている。店名も何も表示されていないし、OPENともCLOSEとも書かれていない、無愛想な扉のノブを、力一杯引っ張ると、店内からむっとした人気が湧きだした。が、熱くはない。むしろ寒いぐらいに涼しい。多分この店のポリシーである荒れた海は決して夏を許さないのだろう。店に静かに流れる音楽の低音部がことさらに凶暴なうなりを上げている。まず、この曲のこのチューンされたライブ(歌っている本人がそう言っている)のベースが弾ける人間は世界中でも数えるほど。日本人にはまず不可能だろう。フェリックス・パパラルディという卓越した音楽家だけに許された奏法だ。
そもそも小節の頭にそのコードの主音がなく、低五度の音から構成されているだけでも完全に型破りだ。ただ単純に「山」として呼ばれるバンドの真髄。
いつものように、詩音が店に入ると店中の会話が切断したテープのように途切れる。動きも止まり、全ての客が眼福にため息をつく。
今日の詩音の姿は、黒いジーンズをきわどく切り裂いたローライズのホットパンツ、丈が短くておへそと滑らかな絹のような腹部が露出し、肩が出そうなほど左右に開いた黒いシャツからは細くしなやかな二の腕から指先までが鞭のようにしなる、極端に夏向きのボーイッシュな(そこらへんは深く考えないようにしよう)スタイルだ。歩を進めるたびにリュ・ド・ラ・ポンプの黒いサンダルが硬い樫木を打つ。髪の毛は天使の輪のように輝き、左の耳元に七色の小さなダイアモンドが煌めく。
そして──この世の物とは思えない、完璧な美貌。澄んだ眼はオニキスのように深く、水晶のように透明だ。見開いた瞳にはこの「ナンタケット」の店内が冗談みたいに完璧に映り込んでいた。いつもの癖で、ちょっと首を傾げて、カウンターに立つ髭面の大男に気軽に話しかける。
「郁夫、来てる?」クリムソン・グローリーのような、艶やかな微笑み。
この「ナンタケット」のマスターでありオーナーである男は、その埋もれたはしばみ色の瞳のまま、黙って顎をカウンターの奥に向けた。錆び付いた巨大な銛や太いロープの渦、オールや滑車、瑠璃色のガラス玉の奥に、Tシャツとはいえかなりお洒落度の高いものを身につけ、シングルモルトを傍らにした若い男が詩音に優しく微笑みかけ、立ち上がって椅子を引き、促すように手を椅子に伸ばして待機している。
詩音は乱暴に高いカウンター席に飛び乗り、頬杖をついて下目線で青年を見る。
「待った?」
「いや、ほんの一時間くらい。あっという間だね」郁夫は人懐っこい笑顔で自分も座り、詩音に近づく。ほんのり柑橘系のコロンが清々しい。
「そういう時は嘘でも『今来たところ』って答えるもんだけどね」
「正直、嘘は苦手でね。あれ? この日本語変かな」
「日本語になってないよ」詩音は軽く指を上げると、もうそこには髭面のマスターが狭いカウンターに大きな腹回りを食い込ませていた。
「マッカランをロックで。もちろん、ダブルよりは多めで」
マスターは厳かに頷くと、冷凍庫から出したグラスをコースターに乗せ、グラスにちょうどいい大きさの氷を滑らせると、片手で「ザ・マッカラン1946」を豪快に注いだ。郁夫の顔色が変わる。