僕は14角形ーCracked pieces A-2
「おいおい、そんなに大丈夫か?って、そのボトル一本で軽自動車一台くらい買えるぞ?」
「いいのいいの」詩音はシャツから金色のプレートを指で挟んだ。それは鯨のシルエットを持つ、ほんの5センチほどの黄金板。
詩音は美しい瞳を閉じて、グラスの中の芳香を楽しみ、口に含む。50年以上寝かせた宝石のような味わいに詩音はうっとりする。酒に濡れた桜色の口唇が壮絶に妖艶な空気を醸し出す。
「あのね、詩音。君が三つも歳をサバ読んでいたのはもう知っているんだよ」
「そりゃそうでしょう。だっていちごと同級生なんだから。ついでに言うと僕は三月生まれだから、いちごより事実上半年は年下になるけど」
「未成年で、しかも世間的には中学三年生にあたるんだから。僕はまだ犯罪者にはなりたくないんだけど」
「その理由が僕だったら? 刑務所の単純作業も楽しいものらしいよ、郁夫君」
詩音はまた大きく酒をあおる。が、詩音の特性として、顔色は変わらない。郁夫はカウンターに顔を埋めた。
「えらいものを好きになっちゃったなあ…」
詩音は郁夫の背中を思いっきり叩く。
「ま、気にするな。青年よ。人生なんて最初から最後まで背景は不幸だ」
「君に言われたくないんだけどね」
「そう? 楽しもうと思えば人生は薔薇色さ。マスター」
髭の大男は意外と素早かった。
「プロコル・ハルムのA Solty Dogをリクエスト。これも海の歌だよね?」
マスターはエプロンのポケットから何かコントローラーを出して打ち込む。やがて店内には静かな波の音と海鳥の鳴き声が響き渡る。静かに始まり、やがて壮大なオーケストラが、ゲイリー・ブルッカーの逞しい声が、空間を満たした。店内の客から、静かなどよめきが起こる。めったに無い事らしい。多くの視線に、詩音は目を細め、朗らかな微笑みを浮かべる。瞬間、店内が明るくなったような錯覚にまで陥る。郁夫は、その極端で無茶苦茶な美しさに閉口した。
(こいつ、神話を素で出来ちゃう化け物なんだよな)心の中で嘆息する。
「そういえば叔父が『あの別嬪を何とか出来んか』ってうるさいのなんの」
「僕は自由だもの。檻の中の珍獣はご勘弁って言っておいて」詩音が瞬くたびに、その極端に長い睫が風を起こすような気がしてならない。郁夫は首を振って正気を保った。
「あのさあ、夏なんだし。草冠の方からも言われているし。海になんか、行かないかね」
詩音がグラスの酒を飲み込みながら瞳を大きく開けた。郁夫はなんじゃこりゃと心で叫ぶ。ただでさえ大きく美麗な瞳がさらに見開かれた。
「海水浴場?」
「いや、草冠とうちのプライベート・ビーチだってば」
「なんですかそのブルジョワ発言は」詩音は黙ってグラスを後に突き出すと、そこに待っていたマスターが新たに景気よく注ぐ。ちょっとまてよ!それって思いっきりヴィンテージだろうが!と、郁夫の空しい心の叫び。
詩音は郁夫とキスできるぐらい近くに顔を寄せた。
「そこで? ふたりきりで? 甘〜い夜を過ごすの? 下心見え見えだし。でも、誘われちゃおうかな〜って悪い僕も居るわけ。ひょっとして、これって口説いてるの?」
郁夫は慌てて手で遮る。が、それも力無く。
「……ま、みんなでね。草冠はもちろん、大島も…出来れば君のお友達……綿星だっけ?」
「なーんだ。善人。卑怯者。たまには僕をうっとりさせてもいいじゃない」
そのまま、詩音はカウンターに俯した。たちまち静かな寝息が聞こえる。
郁夫はやれやれと言うように肩をすくめた。
問題はどうやってこのとんでもない美貌の身体を「お姫様だっこ」でタクシーに乗せるかだった。乗せるだけではなく、彼女(?)のベッドまで運ばなくてはならない。
いつもながらの、この上なく嬉しい厄災を郁夫は楽しみにしている自分に気が付く。
なにしろ、こんなギリシャの美神みたいのを抱えて歩く歓びに。