若草の丘-1
私たちが通うこの学園は、緑豊かな山の中腹に広大な土地を拓いて建設された。
幾度にもわたる隣接地への移転や建て替え、増設を経て、今では一つの山が丸ごと学園の敷地という様相を呈している。かつての校舎や施設などの痕跡が今でもひっそりと散在しており、夏合宿の肝試しなど、各種イヴェントに最適なステージが大小さまざまに取り揃えられた状態になっている。
「沙楽先輩!」
「お待たせ、彩乃ちゃん。」
二人が待ち合わせたこの草原は、今でもほとんど当時のままの姿で残っている第二世代校舎の裏側にある。建物の陰になって人目に付きにくいため、この場所の存在を知らずに卒業する生徒の方が多いと志歩先輩から聞いた。実は現在の校舎からさほど遠くはないのだけど。
「この場所、すぐ分かった?」
「はい。こんなに大きな」
彩乃ちゃんは旧校舎を手で示した。
「目印があるんですから。」
「そう、メチャクチャ分かりやすい。でも、それがかえって目立たなくさせているのかもしれないね。歴史を感じさせる重厚な校舎にばかり注意が向くから、その裏側に広がる草原の事を意識に上らせる人は少ない。」
私たちは自然に手を繋ぎ、校舎に背を向けて歩き始めた。足元にはふくらはぎぐらいの高さの若草が生い茂っているが、歩きにくくはない。サラサラと足に触れる感触が、むしろ心地よい。
なだらかな草原の坂道をしばらく登っていくと、丘の上に出た。
サーっと風が渡り、若草と私たちのスカートを揺らした。
「うわあ…。」
彩乃ちゃんが感嘆の声を上げた。
丘の向こう側は一気に視界が開け、遠く広がる平原には色とりどりの花々が咲き乱れている。その先にある鬱蒼と生い茂った森の深い緑とのコントラストが美しい。
「ね、素敵でしょ?」
「いつも私たちが勉強や部活をしているのと同じ敷地内にこんなところがあったなんて…。」
「あなたの知らないことがまだまだあるのよ、この学園には。」
二人は並んで丘に立ち、しばし絶景を楽しんだ。草原を抜けていく爽やかな風に緑の若草が揺れ、彩乃ちゃんの長い髪が私の腕を撫でた。
「ここにはよく来るんですか?」
景色を眺めたまま彩乃ちゃんが訊いてきた。
「いいえ、二回目よ。」
「二回目?こんなに素敵な場所なのに。」
「素敵だからこそ、特別な時にしか来ないの。」
「特別…。」
『特別、ですか。志歩先輩』
その特別な場所に一回目に一緒に来たのは誰なんだろう。そう思わずにはいられなかった。
私は話題を変えた。
「ねえ、彩乃ちゃん。少し前の方に石が左右に並んでるでしょ、ほぼ等間隔に。あれって何だと思う?」
彩乃ちゃんは顎に人差し指を当て、小さく首を傾げた。そんな何気ない仕草が愛らしい。
「さあ…遺跡、ではないですよね、石が小さすぎるし。」
「遺跡と言えなくもないんだけどね。あれは、ここがあの旧校舎の裏庭だったころの名残よ。胸の高さぐらいの柵があったの。」
「柵…せっかくこんなにきれいな景色なのに。」
彼女はもう一度遠くの花々を見つめた。
「そうね。確かに美しい花々の平原と緑の森が広がっている。でも、それはここから見ればの話。」
彩乃ちゃんが話の先を促すように私の顔を見た。
「実際に近づいてみれば毒のある花かもしれないし、気持ちの悪い虫や危険な生き物が潜んでいるかもしれない。それにね。」
私は柵の台座だった石のすぐ手前まで進んだ。彩乃ちゃんはついてきた。
「あ!」
足元にはほとんど断崖と言っていいほどの急斜面が広がっている。
「花の美しさに誘われてこの坂を下ったら、もう引き返すことは出来ない。」
口に手を当てて目を見開いている彩乃ちゃんの方に振り返り、彼女の肩に手を乗せた。
「彩乃ちゃん。」
「は、はい。」
彼女の目を覗きこんだ。
「越えてみない?私たちの目の前にあるこの柵を。あなたと私、二人で一緒に。」
真剣な眼差しで私を見つめ返してきた彩乃が、ゆっくりと口を開いた。
「…私、なんですね。」
黙ってうなずいた。
「他の誰でもなく、私なんですね、沙楽先輩。」
私はもう一度頷き、彩乃ちゃんの頭をギュっと抱きしめた。彼女は抵抗しなかった。
「越えましょう、一緒に…。」
耳元で囁くと、彼女の体から力が抜けるのが分かった。
息の音が分かるくらいの至近距離に彩乃の顔がある。じっと見つめると、その瞳に潤いが流れ、瞼が下りてきた。
「この前も言ったけど。簡単に許しちゃダメよ。大切な人のために…」
「大丈夫ですよ。沙楽先輩の唇、とても美味しそうだから。」
二人は目を閉じ、唇を重ねた。
「んふ…。」
彩乃が切なげな声を漏らした。