初めての-1
「そうそう、そんな感じ。水中とは重力の方向が違うけど、基本的な体の姿勢は同じだから。今の感覚をしっかり体で覚えてね。」
「はい、涼水原先輩。」
藤谷彩乃さんの囁くような細い声が、屋内プールの天井に反射して小さく響いた。
腰まである長い髪は、ロングヘアー専用のスイムキャップに収めてある。後頭部に少しコブのようなでっぱりが出来てしまうが、まあそのくらいは我慢してもらおう。水泳するなら髪を切れ、なんて言われてしまう時代もあったのだから。
やや小柄な体にぴったりフィットした競泳用水着はピカピカの新品。一年間使い込んだ私のものに比べると、表面がツヤツヤに綺麗なのはもちろん、どこも緩むことなく体の線をピチピチに浮き出させている。
細身ながらに必要な所にはふっくらと肉付きのよい彼女の体は、少女らしさの中にも女の魅力が芽生え始めているのを感じさせた。
制服を着ているときにはよく分からなかったのだけど、胸は意外と大きい。競泳用水着に軽く締め付けられながらもしっかりと張り出している。
お尻はやや小ぶりだ。でも、ふくよかな丸みを帯びていてプリっと可愛らしい。キュっと引き締まったウェストとのメリハリも利いている。
水着の下からスラリと伸びた両足はしっとり白く滑らかな肌をしており、女の私でも見とれてしまうぐらいに美しい。
肩紐の下に見える華奢な鎖骨と小さな肩にはまだ幼さが残っているが、女らしい足とのアンバランスさが彼女の体が成長過程にあることを物語っており、少女から脱皮しようとしている時期に独特の妖しい魅力を漂わせている。
「じゃあ、水に入りましょうか。」
「あ、はい…。」
藤谷さんの口元に少し力が入ったのが分かった。
「緊張してる？藤谷さん。」
「え…。はい、少し。」
はにかんだような微笑みが初々しい。
『緊張してるのかしら？涼水原さん。』
『あの、はい…。』
水泳部としてプールに入るのが初めてなのもあるけど、松村志歩先輩と一緒にいるとなんだかドキドキする。これが、憧れるということなのかな。
「私もよ。」
「え、涼水原先輩も？」
「そう、私も緊張してる。だって、後輩を指導するの、これが初めてなんだもん。二人とも初心者、ということね。」
彼女の表情が少し和らいだ。
「さ、行きましょう。滑りやすいから気を付けてね。」
私が手を差し出すと、藤谷さんはおずおずといった感じで手を伸ばしてきた。私はそれをしっかりと握った。
二人は、目を逸らさずにまっすぐに見つめ合った。
『さあ、いくわよ。』
私の手を松村先輩が握った。
なんて温かくて柔らかな手なんだろう。ずっと握られていたい気がする。この人に。
水の跳ねる音、掛け声、ホイッスル…。周囲には、屋内プール特有のボワンとした残響とともに、水泳部のみんなが活動している音が溢れている。コンサートホールなら最悪の音響特性だろうけど、私はこの空間に身を置くと気持ちの高ぶりを感じると同時に安らぐ。無意識の記憶がそうさせるのかもしれない。
「さあ、これがプールへ降りる梯子よ。藤谷さん、水への入り方、分かる？」
今日の水泳部の練習では、新入生の７人にそれぞれ二年生がひとりずつ付いて個別指導をしており、私の担当はこの藤谷彩乃さんだ。
「水への入り方…。」
私はイタズラっぽく笑いながら藤谷さんを見つめた。彼女は少し困ったような目で見つめ返してきた。
「なんてね。冗談よ。普通に梯子を降りればいいの。普通にね。そうすれば、入れる。」
「…あ、はい。」
彼女はよく分からない、という顔をしている。なぜ、普通にすれば入れる、とわざわざ言われているのかが。
そう。今は分からない。それでいい、今は。
「涼水原先輩って、冗談も言うんですね。」
リアクションに困ったのか、話の方向を変えてきた。
「あら、そんなにカタブツに見える？志歩先輩じゃあるまいし。」
「えー、聞かれたら叱られますよ、まだ学園にはいらっしゃるのに。」
私は手をメガホンの形にした。
「叱ってみろカタブツー！おーい志歩せんぱーい、私を叱ってみろー！」
「あはは！ダメですよー、涼水原先輩！」
彼女が初めて私に見せた、無邪気に笑う姿。その花のような笑顔は、私の胸の奥深くへと染み込んでいった。
「あら、何を叱ればいいのかしら？」
二人とも笑顔のまま凍り付いた。
「なんてねー。」
私の同級生のモノマネだった。
「おい。」
「や、やめてくださいよー。」
「はは！ビビったか、やーい。」
それ以来、彼女はよく笑うようになった。
内気でおとなしい性格が変わるわけではないが、多少なりとも打ち解けることができたのかもしれない。
「…志歩先輩ってね、ああ見えても口から出るのは半分以上が冗談なのよ。」
「え、そうなんですか、ぜんぜん見えません。」
「でしょ？私もそう思ってた。美人で色気はあるけど、マジメなだけのつまらない人なのかな、って。でもね、だんだん分かってきたの、あの人の本当の魅力が。」
「本当の魅力…。冗談が面白い、とか？」
「ぷっ…くくくっ…。」
「え？ええ？あの、私なにか…」
「それ、最高。ある意味正解だし。」
「あ、はあ…。」
「分かってくるわ、あなたにも。」
藤谷さんはきょとんとしている。
そう、分かってくるの。あなたにも。私がそうだったように。