02.来客-1
二《来客》
「上がれよ、智志」
「いつも邪魔してすまん。嶺士」
智志は玄関で靴を脱ぎながら言った。
外では蝉がけたたましく鳴いている。ここのところ夕立もなく、日差しばかりが容赦なく町中を加熱する日々が続いていた。智志を招き入れて玄関ドアを開けた時に入り込んできたむっとするような熱気が、まだ俺の頬のあたりにまつわりついている。
「なんか元気ないな、夏バテか?」
俺が言うと、智志は提げていた細長い紙袋を左手に持ち替えながら言った。
「そう見えるか? 別に普通通りだ。どこも悪くない」
「そうか。ならいい」
智志は口をきゅっと結び、俺の目を切なそうに見つめていた。しばらく会えなくなる、数日前そう電話で伝えてきた智志の沈んだ声を俺は思い出していた。
俺の横に立った亜弓が言った。
「上がって智志君。暑かったでしょ」
意表を突かれたように少し動揺して亜弓に目を向け直し、智志は笑った。
「ああ、ありがとう亜弓ちゃん」
妻の亜弓は微笑みながら智志が差し出した手土産のワインを受け取り、キッチンに入っていった。
俺たちは三人で飲みながら、昔話で盛り上がった。
「来る度に言わせてもらうが、おまえ、結婚はまだなのか? いい人はいないのか?」俺が切り出した。
「そううまくいくもんか」
智志は拗ねたようにテーブルの枝豆に手を伸ばした。
「好きな人とか、いないのか?」
智志は動揺したように瞳を揺らめかせた。
「い、いるにはいるけど……」
俺の横にいた亜弓がちらりと目を上げて智志を見た。
「コクればいいじゃないか、その子に」
「なかなか思い切れなかったが、今日は……いや」智志は言葉を濁してグラスのビールを一口飲んだ。
「そういうことは早い方がいい。ふられるにしてもな」
「他人事だと思いやがって……」智志は俺を上目遣いに睨んだ。
俺は笑ってグラスに残ったビールを飲み干した。「そう言えば」
俺がテーブルに置いたグラスに亜弓がビールを注ぎ足した。
「おまえ、しばらく会えなくなるなんてこと、言ってたが、あれ、どういうことなんだ?」
「アメリカに赴任することになったんだよ」
「なんだと?」
「急な話ね」
「で、いつ発つ?」
「明後日」
「すぐじゃないか。準備は? こんな直前に俺んちで飲んでていいのかよ」
「発つ前におまえにだけは会っておきたかったんだ」智志は俺をじっと見つめた。「言いたいことが山ほどある。わかってもらいたいことも……」
その真剣極まりない表情に俺は戸惑いながらも笑顔を作って応えた。
「いいぜ、今夜はつき合うよ。何でも話せ」
智志は寂しげに笑った。「ありがとう」
「智志君から頂いたワイン、開けようよ」
亜弓が言って立ち上がった。
「安物だけど」智志は彼女を見上げた。
「飲むのはワインばっかり? 智志君」
「普段はワインだね」
「焼酎やハイボールなんかの蒸留酒系は苦手だよな、おまえ」
俺が言うと智志は頷いた。
「そうなんだ。ああいうのは飲むと確実に悪酔いしちまう」
亜弓が持ってきたボトルを俺が受け取り、すぐにオープナーで開けた。そしてテーブルに置かれた三つのグラスに注ぎ入れた。
「カリフォルニアのピノノワールじゃないか。軽めなのが好きなんだな、智志。前に持ってきてくれたのもチリのメルローだったし」
「食べるのが主体だからな。ワインは料理の引き立て役ってところだ」
俺は軽く頷いて、一つのグラスを智志に手渡した。
「嶺士も好きだよな、ワイン」
智志は妙に嬉しそうに言った。
「ああ、亜弓が好きで俺も感化された。小ぶりだがセラーもこないだ買った」
「へえ! 本格的だな」
「なあに、おもちゃみたいなもんだよ。フルボトル5本で満杯だ」
智志は笑った。
「喰えよ、おまえの好物だろ? いつもなら真っ先に平らげるくせに。」
テーブルの真ん中に置かれた大きな皿にはきつね色の海老フライがてんこ盛りになっていた。今日は智志はまだそれに箸を伸ばしていない。