01.動揺-3
◆
――それから10日が経った暑い日のこと。
昼休み、嶺士はプールの奥にある事務所に呼び出された。
「嶺士、どうかしたのか?」
経営者のケンジは事務所のソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
「え? 何が?」
「目が死んでる」
ケンジは肩をすくめた。そして嶺士に向かいのソファに座るよう促した。
「いつもなら小学生の子供たちがまつわりついてきて、君もそれに楽しそうに相手してたじゃないか。ここんとこ何かそっけない態度に見えるけど」
「まあね」嶺士は一つため息をついた。「ちょっと悩んでることが、あるにはあるんだが……」
「相談に乗るよ。話してみろよ」
「いや、相談するほどのことじゃ……すまん、仕事、ちゃんとやるよ」
嶺士は立ち上がり、背後のケンジにちらりと目を向けて手を挙げた後、入り口のドアを開けた。その時ケンジの妻ミカと鉢合わせしようとして、彼は思わず立ち止まった。
「嶺士、なんだ辛気臭い顔して」
「ミカさんまで……」
「何かあったのか?」
「別に何も。すみません、気を遣ってもらっちゃって」
嶺士は軽く会釈をして、頭を掻きながらプールに戻っていった。
スクールのその日の日程が全て終わり、他のスタッフと一緒にプールサイドの掃除をしていた嶺士はミカから声を掛けられた。
「ちょっといいか? 嶺士」
事務所でケンジが険しい顔をして待っていた。
失礼します、と言って嶺士はその部屋に入った。
嶺士の後ろでドアを閉めたミカが、いきなり大声で言った。
「いいかげんにして! どういうつもり? 子供が一人溺れかけるとこだったんだよ?」
「す、すいません」嶺士はうなだれた。
「まあ大事には至らなかったけどね。スイミングのスクールではちょっとした不注意が命に関わる事故に繋がるってことは君も知ってるだろ?」ケンジが言ってソファにやれやれと腰を下ろした。「ケイタがたった一人でプールの中に残っているのを見たときは心臓が停まりそうだったよ」
「一歩間違ったら警察沙汰よ? なにぼーっとしてるのよ、朝からずっと」
「ここに座れよ、嶺士」
嶺士はケンジの横に、その向かいに鬼のような顔をしたミカがどかりと腰を下ろした。
「小学生クラスを持って、まだ慣れてないってこともあるんだろうけど、点呼は確実に、ってあれほど言ったじゃないか」ミカは手をこまぬき、鋭い目を嶺士に向けた。
「すいません。俺、全員ちゃんとそろってる、って思い込んでました」
「四年生の太郎がケイタの声色を真似て返事したんだと。横にいた香奈がそう言ってた」
「整列させて返事をさせるだけじゃ点呼にならない。インストラクターが指さし確認するのがルールだ」
「プールの中にも、プールサイドにも誰一人残っていないことを確認して上がるのが大原則」ミカが念を押すように言った。
ケンジが言った。「特に子供は何をするか予測できない。油断してたな、嶺士」
「ほんとに申し訳ない、ケンジ」
嶺士は肩を落としてうなだれた。
しばしの沈黙の後、ミカがソファに深く座り直して口を開いた。
「とにかく話して。今までノーミスのあんたがそんな風になってる訳を。何かあったんだろ?」
嶺士は唇を噛み、恐る恐る顔を上げてミカとケンジを交互に見た。
「カミさんが家出したんです」
「なに?」ケンジが険しい顔で言った。「亜弓ちゃんが?」
「何があったんだ?」ミカが声のトーンを落として訊いた。
「先週、高校ん時一緒だった智志が俺の家に泊まったんです」
「智志?」ケンジが訊いた。「あの、君と同じ水泳部のライバルだった宮本?」
「そう。あいつ。年に何度か家に来て一緒に飲む仲なんだが……」
嶺士はケンジとミカに智志が家に来てからの出来事を苦しそうに話し始めた。