01.動揺-2
一週間ほど前にスイミングの担当クラス替えがあり、それまでの高校生クラスから小学生クラスの担当になった嶺士は、慣れない相手とその圧倒的な元気さに活力をすっかり奪われ、その疲れがなかなか取れない日々を送っていた。いきおいベッドで亜弓を抱く余力など残っていなかった。
亜弓が黒いショーツを穿くときは、身体が火照って自分を求めたがっているということを嶺士は知っていた。それに応えられない不甲斐なさを思いながらも、背を向けた亜弓をそっと抱いたまま、やがて深い眠りに落ちていった。
明くる日の晩、亜弓はパジャマ姿でベッドにいた。俯せで肘を突き、女性週刊誌を広げていた。
嶺士が訊いた。「明日智志が家に来るけど、俺が何かすることはないか?」
「ううん。別に何もないよ。いつも通り」
亜弓は雑誌から目を離さずに言った。
「そうか」
嶺士は亜弓の横に仰向けになった。亜弓は雑誌を閉じてサイドテーブルに載せると、嶺士に顔を向けた。
「四か月ぶりね、智志君と会うの」
「そうだな」
嶺士の高校時代、水泳部で一緒だった宮本智志(みやもとさとし 30)は、嶺士とはメドレーリレーで組んでいた平泳ぎの名手で、二人は親友同士だった。その華麗に水を切る、優雅とも言える泳ぎのフォームは部員の羨望の的で、彼らが三年生の時、秋の大会前の合宿では、当時一年生だったマネージャー亜弓もその練習の様子を惚れ惚れと見とれていた一人だった。
「なんで智志君は水泳の道に進まなかったんだろうね、あんなにすごい選手だったのに」
「水泳のスキルが活かせる仕事なんてそうそうあるもんじゃないからな。今でも泳ぎで喰っていける俺はラッキーな方だよ」
亜弓は少し考えた後、嶺士に身体を向けた。
「嶺士は智志君のこと、好きなの?」
「当たり前だ。親友なんだから」
「智志君もそう思ってるのかな」
「そうじゃなければ年に何度も家に遊びに来たりしないだろ?」
智志は三か月に一度ぐらいの間隔で定期的に鶴田家を訪ね、一晩泊まって嶺士や亜弓と飲みながら語り合う時間を持っていた。嶺士もそれを楽しみにしていて、彼がやって来る時はいつも好物の海老フライを亜弓に作らせるのだった。
嶺士は寂しそうな顔をしてため息をついた。
「しばらく会えなくなるから、今回が最後かも、って言ってた」
亜弓は驚いて訊いた。
「え? どういうこと?」
「さあな。来たら詳しく話してくれるだろう」
亜弓はちょっとだけ切ない顔をした後、努めて明るい声で言った。
「かっこよかったよね、智志君」
「そうか?」
「あの逞しい筋肉とか、お尻とか」
「お尻? そんなエロいこと考えてたのかよ、おまえ」
嶺士は呆れた様に言って亜弓の額をつついた。
「うん。みんなそう言ってたよ。でもあたし、そんな目で嶺士のことも見てたよ」
「へえ」嶺士は上ずった声を出した。
「かっこよくてセクシーな男の人の身体を見れば女だって熱くなるものだよ。あたしが水泳部のマネージャになったのもひとつはそれが目的だったもん」
「エロ女」
「みんなそうだよ」亜弓は口を尖らせた。「マユミ先輩だってそう言ってたよ」
「マユミが?」
「そう。マユミ先輩、あたしにこっそり言ってくれたことがあったよ。水泳をやってる男子に抱かれたいな、って思うことがあるって」
「マユミは巨乳だしな。その気になりゃオトコなんかすぐに釣れたんじゃないか? 実際いっぱいいたよ、彼女とつき合いたいって考えてる部員」
「みんな巨乳狙い?」
「大半はな」
「嶺士も?」
「ちょっとだけ」嶺士は笑った。
「嶺士だってエロ男じゃん」亜弓も笑った。「でも誰ともつき合ってなかったね、マユミ先輩」
「ガード固かったな。確かに」
「マユミ先輩の双子のお兄ちゃんのケンジさんもかっこいい身体だったよね。泳ぎはもっとかっこよかった」
「今でもそうだ。スクールでケンジがプールに出て来ると女子高校生がきゃーきゃー騒ぐ。うるさくてしかたないんだ」
「嶺士も素敵だって思う? ケンジさんの身体」
「はあ?」嶺士は眉間に皺を寄せた。「なんだよそれ」
「男の人のハダカに興味ないの?」
「あるわけないだろ!」嶺士は大声を出した。「ホモなんて気持ち悪いよ。もし近づいてきたらぶん殴る」
「そこまで拒絶しなくてもいいじゃない」
「うえーっ、想像しただけで身の毛がよだつ」
亜弓はそんな嶺士を見て、小さなため息をついた。