濡れ羽色のお下げ髪-2
「あのさ、ちょっと麻生に訊きたいことがあるんだけど」
並んで歩く大森俊介が言いにくそうに訊いた。
「な、何?」
動揺を隠せない遥香は、彼が知りたがっていることについてあれこれ想像した。おそらく学校の理科室にまつわる噂話のことに違いない、と遥香は一学期の終業式当日まで記憶を巻き戻す。
その日、忍び込んだ理科準備室で遥香はオナニーをしていた。もちろん自らの意思でおこなったわけではなく、あくまでも櫻井教諭らの指示による破廉恥行為だったのだが、いつの間にか自分だけの世界に迷い込んでいたことは否定できない。
密室であって密室でない──そんなふうに細工した理科準備室での行為を、大森俊介が覗いていた可能性は大いに考えられる。女子にだって普通に性欲はある、という場面を大切なクラスメートに見られていたのだ。遥香はもう我慢できなかった。
「はっきり言ってくれていいよ」
思い切って遥香が言うと、彼はようやく白状した。
「じつは俺、夏休みの宿題でやり忘れたところがあってさ」
「えっ?」
意味がわからなかった。想定外の台詞を聞いた遥香の脳は混線していた。それでもどうにか理解しようと努力した。
「夏休みの宿題?」
水面から顔を出して呼吸をするように、遥香はそれだけ言って胸を撫で下ろした。危うく窒息するところだった。
「鞄の中身を探ってたらさ、見覚えのないプリントが出てくるんだぜ? 焦って心臓が止まるかと思ったよ」
「ばーか。心臓が止まったら幽霊になっちゃうじゃん」
「そっか、それもそうだな」
そう言って大森俊介は凛々しい眉毛を崩して笑った。そんな彼を見ているうちに、遥香の抱えていた誤解が空中分解して綺麗さっぱりなくなった。
大森くんは優しいな、と遥香は恋心を募らせる自分にしばし酔った。
やがて目的の校舎にたどり着いた二人は速やかに教室に入り、その三十分後には体育館で全校生徒に混じって整列していた。熱気の漂う館内は私語で溢れかえっていて、正面の壇上にぽつんと置かれたスタンドマイクが妙に寂しげで、そこだけが別な空間のように遥香には思えた。
「静かに!」
教師の一人が怒鳴り声をあげると、ざわついていた大勢の声が一斉に静かになった。どうやら校長先生のお出ましのようだ。
全校生徒、教職員一同が見守る中、鷲鼻(わしばな)の校長は壇上で一礼すると、マイクの調子を確かめてから新学期の挨拶を述べた。
その中身について、遥香の胸に刺さる言葉は何一つなかった。彼女に限らず、生徒の誰もが同様の不快感をおぼえているに違いなかった。