ジゴ系-1
電話が鳴っている。
母さんの携帯だ。
ソファのクッションまで震えるから振動が尻に微妙に伝わってくるのが気持ち悪い。
何だよ、忘れてったのか。
そう思いながら、僕は携帯を手に取った。
何年も前の赤い折り畳み式のガラケーだ。
今どき。
通話ボタンを押して、耳に押し当てる。
「もしもし」
「あ、貴也?」
「うん、携帯忘れてったっしょ」
「やっぱり家にあったんだ、良かった〜」
「取りに戻る?」
「う〜ん、もう帰るからいいわ。冷蔵庫のラックに入れといて」
「ん、分かった」
「お願いね〜」
語尾の上がる癖のある母さんの声はいつも通りにそう言って電話はすぐに切れた。
そのほんの20秒ほどの会話の間に僕は立ち上がって台所に向かっていた。
冷蔵庫の横にはマグネット式の小さなラックが貼ってある。
その中には封筒やDMや直近の請求書があれこれと入っていた。
僕の部屋は片づけなさいってうるさい癖に、こういうのはゴチャゴチャになったままだ。
何だよ、自分はやらないのにさ。
そう思いながら携帯を入れようとした僕はふと疑問に思った。
さっき、母さんはどこからかけてきたんだろう?
友達の携帯を借りたのかな。
ろくに見ていなかったけど、通知先はどこだったっけ?
公衆電話なんて今どきないし、仮にあったって普段かけない自分の番号なんて覚えてるもんか?
あの忘れっぽい母さんが?
一瞬気になってもう一度折り畳み式のガラケーを開いた。
僕はスマホに切り替えて何年にもなるから、何だか懐かしい。
ぎこちなくどこを押していいのか少し迷ってからようやく着信履歴を開く。
今日の日付のほんの一分前、ついさっきの着信記録が残っていた。
見慣れない番号と通話相手の名前は………「ニコ」?
誰だ?
ニコ?
友達のあだ名か?
あるいはママ友らしくないキラキラネームか?
でも母さんの友達はもちろん、僕の周りにもそんな名前の奴はいない。
ちょっと電話帳も開いてみた。
父さんや僕の名前までわざわざ苗字付きで登録されている。
料理とかいい加減で雑なところがあるのに、変なとこ几帳面な母さんらしかった。
それ以外もみんな苗字から登録しているのに、今の着信だけ名前だけで登録してるのがちょっと不思議だった。
僕の学校や同級生のママ友、そして近所の美容院の店名や友達らしい女性の名前や母さんの実家の祖父母の名前もある。
試しにな行を開いてみた。
小学校の時から一緒の僕の同級生で母さんのママ友でもある「名塚君子」の次に突然「ニコ」という登録名がきてた。
他にカタカナで登録されている名前が無いから余計違和感がある。
誰なのかかけ直してみようか、と思ったけれどニコさんに何て聞けばいいか分からないし、もう母さんと一緒にいない可能性もある。
そしたら「ニコ」さんと話の間が持たないなと思ったから止めた。
そうこうする内に今度はポケットの中の僕の携帯が鳴った。
元々さっきまで友達のケースケとゲームやってたんだ。
返事が無くなったから回線落ちしたかと思って連絡してきたんだろう。
母さんの携帯をラックに入れると、ケイスケからの着信を取って話し始めた。
それから30分もすると、母さんが帰ってきた。
見慣れた格好して、いつも通り近所のスーパーの袋を手にぶら下げて。
僕の母さんは中山恵子という。
御年40歳だけど、それを僕が言うと永遠の29歳っていう。
29歳だとしてももうおばさんだけどって言うと、拗ねる。
髪も明るく染めてるから、40歳というともうちょっと若く見えるかもしれない。
もしかすると39歳くらいには。
若い頃はバレーボールをやってて、ちょっと背が高い。
そのせいもあってか、今もママさんバレーをやってる。
最近は前より練習するからか、少しは痩せたらしい。
けれどずっと見ている僕にはちっとも分からない。
多分どこにでもいるちょい騒がしくて、ちょい綺麗目の優しいおばさん。
そんな母さんだ。
何年か前、僕が初めて携帯を買ってもらった時、一緒に家族割引でオトクに買えるからとかそんな理由で母さんも携帯を持つようになった。
母さんは今どき機械オンチで、ビデオ録画もろくに出来ない人だ。
だから携帯なんていったってせいぜい通話かカメラくらいで、メールも簡単なのしか送れない。
もちろんワンセグやナビなんて起動させた事もないと思う。
それでガラケーで十分だからって買いなおさないままなんだ。
普段母さんの携帯はずっと自分のバッグに入っている。
充電以外はいれっぱになっていると言っていいくらいで、家じゃ手に取っていじっているのもほとんど見ない。
だから実際父や僕とか身近な人との通話くらいしか使ってないんだって思ってた。
だからそんな疑った事なんて全くなかった。
ましてあの母さんなんだし。
そう思ってた。