プロローグ──影を歩く少年-3
目の前の蠅が薄い霧となり、温度が二十度は下がった。カーテンを下ろしたようにあたりは光を失い、詩音の足下は濡れた石畳に変化する。そして、陰鬱な雨音。
瓦斯灯に照らし出された色彩のない夜に数階建てのモルタルやコンクリート、石造りと雑多なビルに囲まれた広場に詩音は立ち止まる。半分ぐらいの建物には蜜柑色の灯火が揺れている。多分蝋燭か、ある種の脂を使ったランタンかも知れない。詩音は左右を見渡して、くん、と臭いを探る。静かに右側の暗黒に塗りつぶされた道を選んで歩き始める。ブーツの裏が石畳に触れてコツコツとした音を街に響かせ、暗黒の道に踏み込んで行くと、また一つ遠くに瓦斯灯が見えた。そこまでの道は足下も見えないほど光が失われている。瓦斯灯の手前に、仄かな光に照らされた古色蒼然とした吊るし看板が見える。文字はほぼ英語に近いが、スペルも文法も見覚えがない。その店の重々しいオーク材のドアを詩音は押し開いた。
暗い店内は結構人に溢れていた。客も店員とおぼしき黒いエプロンを着けた男たちも、ほとんど例外なく顔を深く黒い髭で覆っていた。詩音は構わず店の奥に進み、狭い裏口のドアの前で立ち止まり、再びその可憐な桜色の口唇を震わせる。
砂漠の天使よ限りなく朦朧な光に満ちよ
邪悪な風鈴の風に忌まわしき悪夢を語らせ
音も声も叫びも苦痛もない永遠の午後三時に集え
理性は枯渇し怠惰は飽満する
意志と夢を持たない獣のように
詩音はゆっくりとひとつ頷き、ドアを開いたとたんに乾いた風に頬を撫でられる。
一面の褐色に覆われた、霞と砂埃にまみれて太陽の見えない街の風景。詩音は階段を二段下りて硬く踏み固められた道をハーフブーツで踏みしめる。道も空も全く同じやや黄色みを帯びた褐色で、目の前には土管とミシンを複雑に組み合わせたような用途が不明の商品や何に使うのか頭を捻るような首の極端に長い壺が展示されている店が見える。何故か詩音はほっとため息をついて、道を蹴るようにぞんざいに歩く。
交差点には信号なのか、細長い電柱のようなパイプの上にボルト止めされた黒い金属の風見鶏が進行方向に向けて規則的に動いている。詩音は横を向いた風見鶏の前で立ち止まる。そして風向きが変わったかのように向きが九十度に変わった風見鶏に従って詩音は道を渡った。その道の角には麻布で作られた奇妙な袋の中に紙に包まれた菓子と思われる商品がいくつも並んでいた。そして道側にせり出した小さなベンチとテーブルとカウンター。詩音はカウンターに首を突っ込むと、様子のわからない闇の中で何かを指さした。
詩音は右手を開いて見つめる。左目だけで。そして握りしめる。そうしている間にカウンターから裸の腕が突き出され、褐色の小さなカップが出てきた。詩音はそれを左手で受け取り、右手を開く。その手の中には銅で出来た六角形の貨幣が三枚乗っている。
その貨幣を、差し出されたひび割れて形も定かではない手のひらの上にそっと乗せ、カップを持ったままテーブルに向かい、カップの中を覗き込んで口元に近づける。
紛れもない濃いエスプレッソコーヒーの芳香に詩音はうっとりする。ベンチに腰を下ろすと、静かにそれを口に含んだ。真っ黒な水面に静かに泡立つ茶色い泡が喉を潤す。古い朽ちかけたテーブルにカップを下ろすと、詩音は頬杖を突いて町並みを見渡した。その仕草ひとつひとつが美しく舞う枯れ葉のように優雅だ。
街はまるで人気がない。出鱈目に板を打ち付けてドアや窓を塞いだもの、枯れた植栽を過剰に植えて見えなくなりかけた三角屋根、建物の隙間に見える果てしのない褐色の荒野。まるで漢字の「井」の字のような十字架を飾った教会、ピラミッド型に積み上げられた古く朽ちた樽の山。どれもこれもが愛おしい、と詩音は思う。望郷にも似たその感情を詩音は言葉にすることが出来ない。
コーヒーを飲み終えた詩音はゆっくり立ち上がり、街を歩く。やがて店や家がどんどんまばらになり、詩音はまた小さく息を吸った。
溶け出した未来を持つ乾いた川岸へ
羽根を持たない蝶が飛ぶように
倦怠と秩序と悪意とささやかな愛に満たされたその学舎へ
あり得ない現実と失望を繋いだ知識の森へ
満たされた肉として魂と共に誘え
景色は歩くたびに急速に流転する。玄武岩の森を抜け、時計の針の橋を渡る。噎せ返るような夏草の樹液に満ちた空には得体の知れない蝙蝠が舞う。詩音の口唇はせわしなく羽ばたき、両手の指が複雑なシラブルを刻む。
ビルの谷間の路地をくぐり抜けて詩音は帽子を押さえて小走りになり、うらぶれた小さな劇場の扉を押し開け、奥の楽屋の幕に身体を滑り込ませた。