プロローグ──影を歩く少年-2
詩音は靴底に濡れた草を感じながら、ゆっくりと歩み出し、やがて採石で草から守られた道を歩く。左側には真っ黒な森の繁みが迫り、右側は雑草の生い茂ったなだらかな丘がどこまでも下り、遠く灰色の海が見える。波は穏やかなようで、潮騒の音は聞こえない。
詩音の桜色の口唇が僅かに開き、微かに息を吸い込む音が漏れる。
金の鎌よ群青の空を裂き祝福された天空と大地を示せ
その名のない街へと続く道を我が足下に
かつてないほど穏やかな風の元に
太陽の黄金の林檎を携えた螺旋へと糸を紡げ
影の無き硝子として我を包み隠せ
即興詩をつぶやいた詩音の足下がにわかに光りを帯び、斑な土の色に彩られる。両側には石造りの高い壁が影を落とし、空は深海から浮かび上がったように鮮やかなコバルトブルーに晴れ渡り、光に満ちあふれる。足音が左右の壁に反響した。
長方形に切り取られた空を、詩音は眩しそうに見上げる。眼を穿つような強烈な陽光が詩音の瞳を焼く。白色のソラリス。
上り坂がしばらく続き、気温は中南米並みに暑く、頬を一筋の汗がつたい落ちる。やがて両側の壁は階段状に低くなって、遠くから人々のざわめきが聞こえ始めた。くたびれた驢馬が引く馬車が奇妙に鼻の長い男に操られて詩音とすれ違う。赤銅色の髪の毛の男は詩音にまったく気が付かない。けたたましい車輪と小さな足音の交差。
青みがかった灰色の石造りの建物が左右に建ち並び始め、やはり奇妙に長い鼻を持った老婆が水を道に撒いている。詩音は濡れた道を踏みしめて街中へと足を進める。
ざわめきはやがて喧噪と言っていいノイズになって詩音に降り注ぐ。奇妙な形の色とりどりの果実が並べられた店には金銭を入れる笊が吊され、道際には赤毛の猫が寝そべっていた。武器らしき刃物や巨大な木槌を壁に展示した店、道路にはみ出したテーブルで何か果実酒のような物を酌み交わす鼻の長い男たち。角笛のような貝で作られたとおぼしき楽器を吹き鳴らす者、かしましく立ち話をする女たち。四角形に区切られた樫木の水槽に糸を垂らし、一喜一憂する人々が時折大声で叫ぶ。鯨の形に切り出された看板にはアラビア語によく似た文字が刻まれていた。
色とりどりの風船を大量に吊した店の角を詩音は左に曲がる。洗濯物が二階の窓で風に踊り、子供たちが路地を走り抜けた。犬と豚を掛け合わせたような奇妙な動物が詩音に気付かずに微睡んでいる。
その先の道には横断するように煙のような大量の黒い蠅が蠢いていて、詩音は僅かに眉をひそめる。悪意と慟哭と苦痛、匂い立つ血の香り。病魔と絶望と死の影が蹲っていた。詩音は漆黒の瞳を半眼にして即興詩を口ずさむ。
暗黒に君臨する疫病の王ベールゼブブの名に於いて正しく
飛散する葬列の花束にそれを捧げよう
彼岸に眠る邪神の車輪の炎に於いて正しく
幼い声と山羊の血に染まる菓子として捧げよう
雨と霧と身を隠した月の下に