前章(四)〜惜別T〜-9
(唯、そのおかげで奥様を病院に御連れする事が出来ると云う物だ。)
時を待たず、秘密裏に転院させようと、身を挺して実行する姿は、誰もが真似出来る儀では無い。その覚悟を識った香山は、心の中で両手を合わせるしか無かった。
(しかし……。)
とは云え、それで彼の胸の内が払拭された訳では無い。寧ろ、疑念は益々、濃く為る。
──奥様との件で、私を叱り付けなさる姿は、単なる義母と息子の関係以上の怒りを感じたが、あれは、気のせいだったのか?
御嫡子に成られての五年足らず。一度足りとて貴子様に対して親しみを感じ取れ無いだけで無く、時折、酷い発言を為されて遠避けていらした方が、急に“女を寝取られた男”の様な態度で罵倒する御姿を見た時には、正直、異様さだけが感じられた。
それに、先程も夕子を相手にされた御戯れ振りは、主従と云う立場を越えて、丸きり好いた者同士が見せる“乳繰り合い”の様に思えて為らなかった。
(何れにしても、親方様に御伝え申し上げねば……。)
暗澹(あんたん)足る思いを胸に仕舞い込み、香山は、伝一郎に明るく声を掛けた。
「それでは、御気を付けて。夕方、六時には御迎えに上がります。」
「判ってます。香山さんも気をつけて。義母さまを頼みましたよ。」
自動車は、名残惜し気に緩々と発車すると、元来た径を戻って行った。伝一郎と夕子はビルディングの旁らから、遠退く後ろ姿を暫く眺めていた。
「行っちゃいましたね。」
「ああ。漸く、二人切りに為れたよ。」
伝一郎は、そう口にした後、傍らを窺い見る。当の夕子は頬を赤らめ、明後日の方を向いていた。
「何で、そっぽを向くんだよ!?」
「だって、伝一郎様の云い方が……。」
「僕の云い方?」
「ええ。声音が何だか……とても、い、厭らしくて。」
どうやら、魂胆を見透かされた様で有る。
「参ったな。君が浄天眼(じょうてんげん)の持ち主だったなんて。迂闊な事は喋れ無く為ったな。」
「い、いえ。そんな大層な物で無く、私と同じ歳位の女なら、大抵は判ると思いますよ。」
夕子の何気ない返答は、伝一郎が密かに自負する女への確かな自信を、大いに揺さぶっていた。
「それ程、不味かったかな?」
「ええ。私みたいに此の歳まで※8不純異性交遊に及んだ例(ためし)も無い女が判るのですから、年頃の女なら大半は気付く物だと思います。」
「そ、そうかい……気を付けるよ。」
表情こそ平静を装う伝一郎だが、その胸中は乱れに乱れる。長きに渡って、女の扱いに長けていると自負していた物が、跡形も無く崩れ去ったのだ。
とは云え、此処で意気消沈しては弱味を見せているのと同義で有る。何より、夕子の言葉を認めてしまう様で、些か気に入らない──。伝一郎は平常心を装い、話題を替え様と辺りを見廻した。
「──しかし、目抜き通りだと云うのに随分と物静かだな。普段も、こんな感じなのかい?」
「い、いえ。何時もはもっと……。」
幾ら、盛夏の平日、昼日中とは云え、人口五千に及ぶ街の目抜通り。百軒から成る店屋が犇(ひし)めき合う場所だと云うのに、行き交う人の数は随分と少なく、その光景は、寂(さび)れた街だと勘違いされても可笑しくない程で有る。