前章(四)〜惜別T〜-30
伝一郎と夕子は、街の西側、繁華街より更に外れの川縁に建つ細やかな宿屋の入口を、人目を忍ぶ事無く潜った。
前払いで宿賃、壱圓伍拾銭を払うと、仲居の案内で部屋に通された。
三畳の畳部屋は、小振りな床の間が有る以外、部屋を彩る掛け軸や一輪の花さえ存在せず、何とも殺風景でしかない。面替えの様子も無い日に焼けた畳。敷かれたまゝの煎餅布団。そして、枕許の塵紙入れが、部屋の特徴を如実に表している。
「閉めっ放しのせいか、部屋が少し、蒸してるな。」
伝一郎は、そう云うと徐に障子戸を開放した。目の前に川の景色が広がっており、水辺に群生する葦が戦ぎ、心地好い川風が部屋へと流れ込んで来た。
「暫く、こうして空気を入れ換えて、後は空かして置こう。」
水面の風景に心を和ませて振り返ると、夕子は布団の傍にしゃがみ込み、俯いていた。事、此処に及んで怖気に見舞われたとすれば、詮(せん)無き事と云えよう。
貞淑足る自分を捨て去ろうと一旦は覚悟を決めたが、「斯様な低俗為る場所では」と、躊躇いが先走るのも女なら無理からぬ事で有る。
「先ずは、汗を流さないか?」
と為れば、否応無く事に及んだとて心交わすには難が有り、剰(あまつ)さえ精神的苦痛と為って後々に迄、残存するやも知れない。
緩々(ゆるゆる)と気持ちを説き解し、目交わいへと至る“段取り”を整えてやる事が須要で、此れより男の器量が試される──。伝一郎は、夕子の気持ちが此方を向く様、専念する事とした。
「さっき、風呂を頼んでおいたんだ。さあ、行こう。」
「い、いえ。私は……。」
誘いを断ろうとする夕子。伝一郎は、彼女の正面にしゃがみ込むと、膝の上で固く握る手を取り、笑みを見せた。
「そう、硬く構えなさんな。汗を流すだけだから。」
「は、はい……。」
夕子は、促されるまゝに立ち上がり、伝一郎の後に付いて部屋から廊下へと出て行く。
「確か……此方と云ってたが。」
部屋を出て、突き当たりの廊下を右に折れ、数歩も進むと右手に、四尺は優に有る萌怱(もえぎ)色の風呂暖簾が、湯殿の場所を示していた。
「ああ、此処だ。」
暖簾を潜ると、二畳程の小さな脱衣場が有り、奥の風呂場との間は戸板二枚で仕切られていた。作り付けの棚には、洗い晒しの浴衣が幾つも備えて有る。
伝一郎は「さあ、入ろう。」と云うや否や、開襟シャツの釦を外し出した。
「そう云えば、夕子は、着物の着付けは大丈夫なのかい?」
「あ、はい。此れなら自分で……。」
「そうか。だったら安心だ。着付けが必要に為った場合、どうしたものかと心配してたんだが、杞憂だったな!」
そう云って、快活に笑う伝一郎。そんな様子を見た夕子は胸が一杯に為り、気付けば想い人の胸に飛び込んでいた。
「夕子……?」
「こんな……こんな私の為に気を遣わせてしまい、申し訳有りません!でも……こ、此処に来たら、何だか怖くて。」
本音を吐露する夕子に、伝一郎は何も訊かず、黙って抱き寄せる。