前章(四)〜惜別T〜-3
「見えすいた嘘を僕に吐かなくちゃ為らない程、重大な事って何なんです?」
「そ、それは……。」
好機と見た伝一郎は、一気加勢に畳み掛ける。逃げ口上を打つ隙を与えぬ様、攻め立てる事により、心理的優位に立とうと図った。
「確かに僕は暇な身ですが、主の息子なんです。そんな僕を蚊帳の外に置こうと云う腹心算(づもり)なんですか?」
「そ、そんな事、め、滅相もございません!私は唯……。」
「唯、何です?」
「事を……内々に処理して……変な噂が立たない様にと。」
「だから、僕には教えられないと?」
互いのやり取りは交錯する事も無いまゝ、何時しか熱を帯びて行く。無論、熱く論じているのは伝一郎だけで、香山は必死に宥めるばかり。
「判りました!此れ以上、貴方と話しても埒が明かないようだ。」
とうとう、痺れを切らした伝一郎は声を荒げ、席を立ち上がった。
遠巻きに二人を見詰める重美や亮子の女給達が、怯えた目で二人の様子を窺っている。伝一郎は、そんな女給達の方に向き直ると笑みを浮かべ、
「重美さん。申し訳ないが、夕子に部屋迄、朝食を届けさせて下さい。」
そう伝えて踵を返すと、香山に背を向けて食堂の出口へ向かい出した。
「坊っちゃま!待って下さい。」
伝一郎は、心の中でほくそ笑む。出て行こうとした途端、香山が血相を変えて追い掛けて来たのだ。
「何です?未だ、下らない水掛け論を続ける心算(つもり)ですか。」
「ち、違います。」
香山は、女給達に「私が呼びに来る迄の間、自分達の部屋に戻ってなさい。」と、人払いをすると、伝一郎に再び、席に戻って来れるよう乞うた。
「此れは、未だ親方様も御存知有りません。ですから、絶対、他言無用で御願い申し上げます。」
香山は、そう前置きをした後、苦悩の表情のまま訥々と、語り出した。
「実は……先程、奥様を診療所に御連れしたのです。」
「何ですって?」
貴子が病気だと?──。香山の言葉を、伝一郎は信じられない。ほんの数時間前迄、互いに我慾を交わしていた時には、そんな素振りさえ無かったからだ。
「奥様って、彼の人は、病気を患っていたのかい?」
「それが……。」
香山は、口隠ったまま周囲を見渡し、誰の気配も無い事を確認すると、更に声を潜めた。
「実は、又、正気を失われた様なので御座います。」
「又って……以前にも?」
「ええ。丁度六年前ですか、貴喜様を御夭逝(ようせつ)為された際、かなりの御乱心ぶりで……。」
此の時、伝一郎は未だ、貴子が可笑しく為った原因が自分に有ろうとは、知る由も無かった。
「──以前は、その筋で有名な病院で御養生為されたおかげか、凡そ、半月後には御戻りに為られましたので、大事に至らずに済みました。
何しろ、悪い噂話は広がり易いものですから。」
確かに、伝衛門の細君で、父親は貴族院で要職に在り、第四等爵位の子爵で有る娘と云う肩書きを持つ貴子が、“気が触れた”と有っては、此の街の者は口を噤(つぐ)んでも、新聞記者の様な有象無象な輩は、針小棒大に歪曲した記事を新聞に載せるに違いない。
それで無くても、伝衛門の如き者共を特権階級だとして憎み、隙有らば貶めてやろうとするのが、記者等の輩が気触(かぶ)れる共産思想と云う物の常だと思えば、前回は運が良かっただけで有ろう。