前章(四)〜惜別T〜-29
田嶋吉乃助の報告を受け、現場に急行した伝衛門は天を仰ぎ見ると、辺りを覆い尽くした悪臭に顔を顰(しか)めた。
産炭場の傍らに聳(そび)える三山の硬山(ぼたやま)。その中で比較的新しく、現在も硬の積み上げを行っている右端の山の至る所から、黒煙が吹き出していたのだ。
「くそ!熱波続きのせいで、とうとう火が点きおったか。」
産炭では、採掘した全ての石炭を製品足り得る訳では無い。“燃料”として重要な炭の含有率が高い物程、良質の石炭とされる一方、一定割合に満たない物は硬(ぼた)として排除する規格が、国に設けられていた。
地下で採掘した石炭は搬送器で地上へと送られた後、石炭と硬とを“選炭”為る手作業で硬を取り除き、廃棄する訳だが、昼夜を問わぬ産炭作業で連日、※16数百貫もの硬が約二十年間に渡って投棄された事に由り、今では高さ約百米(メートル)、周囲八百米から為る硬山が三山、産炭場の傍らに堂々と鎮座する迄に至ったので有る。
問題は、それら硬山が夏の日射しに灼かれる事を起因として、希に自然発火に至る場合が有るのだ。
斯様な場合、直ちに水を散布する事で冷やし、延焼を食い止めて鎮火せしめんとするのだが、鎮火に至らぬ場合、硬に含まれる炭が尽きる迄、硬山は燃え続ける事と為る。
そればかりか、燃えて高温に灼けた硬は脆く、外気で冷やされる事で砕け易く為り、最悪の場合、硬山は自重に耐え切れずに崩落してしまう。そうなった場合、産炭場の操業に大きな支障を来たしてしまうのだ。
此れ等の理由から、夏場は、硬山が招く火事災害を未然に防ぐ様、管理、監督する“火消し役“が必要だと、古くから結論付けられていた。
とは云え、男達の大半は坑夫として産炭に従事しており、火消し役に取られるのは具合が悪い。そこで、坑夫の女房や家族、はたまた大店の奉公人等を火消し役に任命し、当番制で任務に当たる様にと、伝衛門が制定したので有る。
夏場の早朝、百人から成る火消し役達が、最新鋭の手漕ぎ放水機と硬を積み上げる為の搬送器を用いて、汲み上げた川の水を硬山に散布する折り、朝日を浴びて虹を架ける様子は実に壮観で、夜中仕事を終えて帰路に着く坑夫達の足を、暫し止めてしまう程で有った。
そんな人々の努力を嘲笑うが如く、硬山は燃え出したのだ──。
既に、火消し役達は硬山の周りを囲み、放水を始めていた。が、山の中程を濡らすばかりで、山頂には至らない。
「直ちに硬の搬送を止めさせ、選炭の者達に川の水を汲み上げ散水させろ!急げ!」
「は、はい!」
伝衛門は、田嶋吉乃助にそう申し伝えて、火消しの陣頭指揮を執る。
「香山はおらんか!」
「親方様、何か!」
「警報を鳴らして人を集めて来い!」
「判りました!」
香山は慌てて自動車に乗り込み、一目散に竪坑櫓へと突き進む。竪坑櫓上の事務所に備えて有るサイレンにて街に急を報せ、消防団を呼び寄せる為で有る。
此の街では、産炭場の災害全般については、基本、火消し役や坑夫の力で鎮静せしめるのだが、災害規模が甚大に及んで増員が必要と為った場合のみ、消防団に加勢を頼む取り決めが成されていた。
消防団は、坑夫でも大店の奉公人でも無い、大工や左官、建具屋等と関連する家内工場を生業もする者達や個人経営の店主や百姓達等、三十余名で構成されており、街中の火消しは勿論、荒天による自然災害時に於いて、避難誘導等の役目を担っていた。
そんな消防団に加勢を頼むのだ。それ相応の“手当て”を振舞う必要と為るだろうが、今は何より硬山の崩落を防ぐ事が先決だと、伝衛門は判断したので有る。
空を劈(つんざ)く程の甲高いサイレンが、街中に危機を報せたのだった。