前章(四)〜惜別T〜-28
「伝一郎様、有り難う御座います。私の様な下女に迄、希望を与えて下さるなんて。」
「今からだと、丸々一年の遅れと為るだろうが、君の力なら大丈夫。直ぐに追い付けるさ。僕も出来るだけ帰って来るから、共に頑張ろう!」
「はい!有り難う御座います。」
全ての不安が消えた訳では無い。が、先程迄とは違う。夕子は、全身を高揚感に包まれた様な気持ちに成った。
「あの、伝一郎様……。」
喜びの余韻の中、夕子は、躊躇い勝ちに訊いた。
「この後、どう為さる御心算(つもり)でしょうか?」
伝一郎は、暫し間を置き、思案顔を浮かべている。
「そうだな……散策を続けたい所だが、こう日射しが強いと、涼しい場所で少し休憩したい気分だよ。」
暑さに根を上げるのも無理は無い。八月を過ぎた此の時分、午後三時を過ぎれば、夕立の訪れが有って当然なのだが、此処、数日はどうした訳か、紺碧の夏空には未だ、入道雲が立ち昇っていなかった。
「涼しい場所……ですか?」
伝一郎の求めにより、夕子は頭の中に街の見取り図を広げると、良い場所は無いかと探索に走った。そして、何かが浮かんだ途端、急に頬を赤らめる。
「どうした?暑さにやられたのか。」
「い、いえ。違うんです。」
突然の変わり様は伝一郎を焦らせ、物云いがきつく為る。が、夕子は否定を繰り返すばかりで、何も語らない。
「本当に大丈夫なのか?どれ。」
曖昧蒙楜な振舞いに業を煮やし、伝一郎は、有無を云わせず額に手を当てて確めた。が、別段、熱さにやられた訳では無い様である。それでは一体、どうしたんだと詰問すると、夕子は漸く口を開いた。
「じ、実は……その、涼しい場所が一箇所だけ。」
「何だい?だったら教えてくれよ。」
伝一郎に促されるも、夕子は、口にするのも憚る様に躊躇っていた。
「その……舟宿です。」
「舟宿……か。」
舟宿とは、かつて、仲睦まじい男女が舟遊びに興じる際、舟を借りる場所の事を示していたのだが、軈ては時が移るに従い、人知れず男女が睦事(むつごと)を行う川縁の宿屋の事を、示す様に為っていった。
此の街にも、本職の※15傾城(けいせい)とは違う※16娼妓(しょうぎ)為る者達が存在し、それらが、客を連れ込む主な場所にと利用していた。
夕子がそれを知ったのは、ほんの二年前の女学生時分で、その時は「こんな場所、私には一生、縁が無いんだろうな。」と、羨やみと妬みが混然とした、そんな気持ちに為った事を覚えている。
「じゃあ、行ってみるか、舟宿に。」
伝一郎は、そう云うと夕子の手を取り、指を握った。
誘い文句に、頷いたのか俯いたのか定かでは無い。が、夕子は、耳まで赤く染めて下向き加減のまゝ伝一郎に寄り添い、拒む事無く付いて行く。
今、二人の脳裡には、今朝の出来事が鮮明に映し出されていた──。涌き上がる情欲のまゝに身体を求め合い、目交わい寸前に迄、至った場面が。
あの時は、邸内と云う事で互いの中に躊躇いが生じ、最後まで至らず仕舞いだった。が、今は躊躇う物など何も無い。存分に我慾をぶつけ合える。
散策と云う、誰の目も憚る事無く奔放自在に振舞える情況が、二人の想いを接近させるだけで無く、「より大胆に振舞え。」と、頭の中で別人格の自分が、挑発を繰り返す──。言葉を交わさずとも舟宿へと歩く二人の心情は、早くも昂り出していた。