前章(四)〜惜別T〜-27
「──夢中に為ると、周りが見えなくなる質(たち)だと自分でも判ってるつもりなんだが……。」
苦笑いを浮かべ、云い訳に終始する伝一郎に対し、夕子は二度、三度と首を横に振り々、
「違うんです。夢中に為って打ち込める伝一郎様の姿が、私には、とても眩しく感じられて……。」
そう云って力無く笑って見せると、軈て、俯いてしまった──。彼女は邸に奉公する下女で有り、邸内での出来事が全てなんだと、伝一郎は、今更に為って気が付いた。
「僕と初対面の時、君は云ったよね。僕の級友が家族と離れて遠い街に奉公に出される事を、“仕方が無い事”だと。」
「はい……。」
問い掛けに応える夕子の声は、小さくて、か細い。
「それは、君自身が自分に、そう云い聞かせてたんじゃ無いのかな?」
夕子は黙ったまゝ、唯、俯いている。良否の程を定かにしない事が、彼女の心境を如実に表していると、伝一郎には思えた。
「──確かに、君の置かれた境遇も考えずに語った事は、僕の不注意だ。すまなかった。でも、奉公をしながらでも夢中に為れる物を持つ事は、可能だと僕は思うんだ。
特に、君の様に知性に秀でた女性は、頭脳労働でこそ社会に貢献出来ると、僕は思ってる。」
「伝一郎様……。」
熱い語り口で諭す伝一郎。何時しか夕子は顔を上げ、泪で瞳を潤ませ乍らも、自分を励ます声に聞き入っていた。
「一つ、提案が有るんだ。僕の勝手な思い込みだけど。」
「はい……。」
耳慣れぬ言葉に戸惑いを感じ乍ら、夕子は次の言葉を待った。
「君に、女子高等学校に行って貰いたいんだ。」
伝一郎の提案を聞き、夕子は、剰りの出来事に声を発する事さえ忘れてしまう──。それ程の衝撃を受けた。
「──そのまゝ、師範学校や専門学校に進んで貰っても構わない。でも、卒業後には、父さまの跡を受け継ぐ僕と共に、働いてくれないか?
君と会って今日迄、僕が思う君への感想は、その知性と観察眼は誰もが持ち得る物でない、天賦の能力だと云う事だ。
そんな人間を奉公人のまゝにして置くなんて勿体無い。正に“宝の持ち腐れ”だと思っている。」
突然、降って涌いた様な進路話──。最早、棄てていた未来図。その続きを進めるだけで無く、共に歩んで欲しいとする伝一郎の真っ直ぐな眼。もう、二度と戻る事は無いとして、心の中で封印した煌めく様な青春の日々。
そこに、再び、臨めと云われ、夕子の心は散り々に乱れてしまう。
「どうだろうか?君がその気なら、僕が父さまに掛け合って見る。どうしても君の才能が、必要なんだ。」
想い人に「必要だ」と、云われれば、何の迷いも無く飛び込んで行きたく為るのが女(おなご)の心情──。況してや、夕子は貧しさ故に進学を諦めただけで、勉学を苦にした訳では無い。
しかし、彼女の中に、踏み出せ無い何かが有った。
「その御話は……。」
「え?何だい。」
「その御話は、信じて宜しいのでしょうか?」
か細い、しかし、力強い声が、伝一郎の耳に届く。
伝一郎が進み行く道。そこを自分が寄り添い共に歩んで行けば、その先に待つのは、街中の者に由る謗りと排斥だ。
だが、そうでは無く、自分の想いは叶うのかと夕子は訊きたかったので有る。
「勿論だよ。父さまがどう思うかは知らないが、僕は君の才能に惚れ込んでるんだ。絶対に約束する!」
伝一郎は、力強く、願いを実現させると誓った。が、それは夕子の心に有る不安を払拭するに至ら無かった。