前章(四)〜惜別T〜-26
「何だと?それは真か。」
「はい。実は……。」
今朝方、起こった伝一郎との騒動を、自分有利に働く様、尾鰭を付け足した上に咬んで含めるが如く、伝衛門に伝えていた。
すると、最初は目を瞑って静かに聞いていた伝衛門は、見る々、怒りの形相へと変化させていった。その変わり様は、事を企てた香山でさえ目を背けたく為る程で有る。
「香山!」
「は、はい!?」
「今直ぐ、伝一郎を連れ戻し、地下に放り込んでおけ!」
伝衛門は、狡猾足る企みにまんまと嵌まり、息子を罰する断を下した。
そして、此の件を機に父と息子の関係が決定的な物に為ろうとは、知る由も無かった。
その時で有る──。伝衛門の部下で産炭場班長の一人、田嶋吉之助なる男が、煤けた作業服のまゝ、部屋に飛び込んで来た。
「お、親っさん!た、た、大変だ。」
産炭場から駆けて来た吉之助の、煤と汗に塗(まみ)れた顔からは、血の気が引いていた。
時刻は午後三時半──。外は未だ、灼け付く様な日射しが健在で有った。
夕子と二人、通りを漫(そぞ)ろ歩く伝一郎。辺りの人影の無さは相変わらずだが、談笑を重ね、丸切り心易く為った二人には却って好都合で有った。
奉公人達の視線や、自室以外では立場を弁えた立ち振舞いと云う、邸内での煩わしさに気兼ねする必要も無い、開放感を味わい乍ら存分に心を通じ合わせられる今が、楽しくて仕方がない。
幼少の頃より街の日常を知る夕子からすれば、閑散とした通りは驚きに値しない。しかし、奉公に出てからの数ヶ月。覚悟の上とは云え、齢十五の少女が家を離れた事に由る家恋しさは一入(ひとしお)で、久しぶりに街を散策し乍ら「級友達に出会ったら、どうしよう。」等と、淡い期待で胸を膨らませていた。
「しかし、残念だったな。まさか今日が、休みだったなんて。」
ミルク・ホールの女給に土産の取り置きを頼んだ後、二人は、伝一郎の要求から常設の劇場に向かったのだが、その日は定休日で有った。
「そんなに御好きだなんて、何だか意外です。」
「学校が休みの時、寄宿舎で同部屋の級友に誘われてからでね。丁度、演目が忠臣蔵で、朧気乍ら知っていた事も有って、楽しかったんだ。
それからは、暇を見付けては大芝居以外、小芝居や旅芝居ばかりを観ているんだ。」
「その、小芝居とは何なのです?」
夕子が興味深げに訊ねると、伝一郎は少し間を置き、頭の中を整理してから答える。
「大芝居とは、国劇として演舞場を持つ事を許された歌舞伎の事で、その他の、仮設の芝居小屋で公演する小芝居や旅芝居と区分けされているんだ。
国劇の歌舞伎はどうも苦手でね。見料は高い上に行儀の良い客ばかりで、合わせるのが窮屈、この上ないと来てる。
その点、小芝居や旅芝居は大衆演劇の為か、客の活気が凄くて楽しいんだ。」
「へえ〜。芝居の世界にも、きちんと棲み分けが為されてるんですね。」
「ああ。国定忠治や清水次朗長の仁侠芝居、それに大岡忠相に遠山景元、そして水戸光圀の講談も、とても興味深くて。それから……。」
伝一郎の想いは殊の外強い様で、次から次へと芝居や講談の演目を並べると、立て板に水の如く喋り続けた。
その熱の隠った語り口と横顔に、夕子は目線を投げ掛けたまゝ、黙って淡い笑みを浮かべて耳を傾けている。
「あっと!すまない。ちょっと喋り過ぎた様だ。」
夕子の視線に気付いた伝一郎は、気恥ずかしさを誤魔化す様に笑った。