前章(四)〜惜別T〜-24
「幾ら姐さま方とは云え、話を鵜呑みにするのは、余り、感心出来ないな。」
「ご、ご免なさい……。」
「まあ、いいさ。取り敢えず、此の話は御仕舞いにしよう。」
二人は、暫しの余韻に浸った後、ミルク・ホールを後にする。時刻は二時半を少し回った所で、表に出ると、強い日射しと共に纏わり付く様な暑さが、二人を待っていた。
「どちらに参りましょうか?」
夕子が、そう訊ねると、伝一郎はカンカン帽を被り乍ら答える。
「何か、土産に成る物を買っておこうと思うんだが。」
「御土産物ですか?」
不可解と云う顔をする夕子に、伝一郎は頷くと、
「論じる程じゃ無いけど、君の身支度は勿論、今も、君を欠いた邸で働いてくれている姐さま方に、僕は、感謝の意を伝える必要が有ると思ってね。
それで、御菓子でもと思うんだが……どうかな?」
稍、はにかみ乍ら胸の内を明かした。その細やかな気遣いに、夕子は胸の内が熱く為る。
「とても……とても良い考えだと思います。」
「やっぱりそう思うかい?」
「勿論です。街には沢山の菓子店が有りますし、甘い御菓子は皆、大好きですから、きっと喜びます!」
産炭の街には、菓子製造業者や甘味処が数多く存在する。
抑々(そもそも)は江戸時代、南蛮貿易に於いて日本は砂糖の輸入に伴い、南蛮菓子の製法も伝来する様になる。貿易港で有る長崎から江戸へと向かう街道は、通称“砂糖街道”と呼ばれ、その街道沿いの宿場街の幾つかが、後に産炭の街として隆盛を誇る様に成ったのだ。
宿場街の時代にも砂糖を用いた菓子製造業者は存在したが、軈て、産炭の街として爆発的な人口増加を起因にして、業者の数が増えたと云うのが一つ。
もう一つは、重労働で有る産炭作業に深く関与しており、“疲れた体には甘い物が良い”とする古よりの風習に加え、炭鉱景気に由って坑夫の多くが高額な賃金を貰うに至り、高価な菓子を嫁や子供の土産として求める等、金銭的余裕が生まれた事も、数多くの菓子業者が生まれる素地と為ったので有る。
菓子業者の増加と共に、菓子を包む経木(へぎ)を作る家内工場も、その数を増やし、原料と成る蝦夷松や赤松、樅(もみ)等を伐採、下加工する材木問屋も、その数を増やして行った。
即ち、石炭産業は、他の産業の隆盛にも大きな影響を与えていたので有る。
坑夫に遍(あまね)く愛顧を賜っていた菓子業者だが、分けても、伝衛門は街一番の上客で有った。
彼の場合、客先や坑夫の一部、そして奉公人用に購入するのが常で、それも、一回で百折りに及ぶ量の注文を連日の様に行う為、遂に伝衛門は、幾つかの老舗菓子店と邸とを繋ぐ直通電話を敷く事で、如何なる時刻にも電話一本で注文出来る様、施していたので有る。
「出来れば、普段は食しない物が良いだろうが、宛は有るかな?」
伝一郎の問い掛けに、夕子は暫し、思案顔をした後、一転して明るい表情と為った。
「でしたら、先程のアイスクリンは如何でしょう?」
「それは名案だが、どうやって邸で?」
疑問を投げ掛ける伝一郎に、夕子は自信有り気に答える。
「私達が邸に戻るのが夕方六時以降ですから、取り置きして貰えば姐さま方に冷えたまゝ、食べて貰えると思うのですが。」
「うん。それで行こう!」
二人は、元来た狭径を後返る。心地よい涼風が吹き付ける中、二人はこれ以上無い程の笑顔を交わしていた。
「なんだと!それは、如何なる理由からじゃ!?」
時刻は午後三時前──。産炭場から少し離れた場所の、商工議会所での会合に出席していた田沢伝衛門は、開口一番、香山に向かって怒号を浴びせた。
「──何で、いの一番に知らせに来んかった!こん馬鹿たれが!」
怒りの剰り、野鄙(やひ)為る坑夫の様に口穢く罵る伝衛門。
「申し訳有りません!親方様、堪えてつかあさい。」
香山も又、主の迫力に気圧されてか、余裕を失った口調は、方言に変わっている。