前章(四)〜惜別T〜-22
「──そう、その笑顔だ。姐さま方は君に厳しく当たるかも知れないが、それは親しみを込めてなんだ。」
「有り難う御座います。伝一郎様のお陰で、胸の痞(つかえ)が、下りたみたいです。」
実際、女(おなご)同士の軋轢は存在するのだろうが、それは重美と亮子の様に歳が近い者同士で起こる事が多く、歳の離れた夕子の場合、妹か若しくは犬や猫の愛玩動物に対する扱いに似たものと、見做(みな)すべきで有ろう。
「伝一郎様、とても美味しかったです。御馳走様でした。」
「此方こそ、良い笑顔を堪能させて貰った。有り難う。」
牛乳にパン、そして冷えたアイスクリンを食した事で、身体から汗が引き、幾分、過ごし易く為った。
すると夕子はどうした訳か、先程迄とは打って変わって、企みを含んだ瞳を伝一郎に向けた。
「所で、東京で召し上がってたアイスクリンもミルク・ホールですか?」
「それは……その、学校近くのカフェーで。」
人間、虚を突かれると、咄嗟に狂言で云い逃れるのは至難の業で有る。それは伝一郎も同様で、山を二つ越えた向こうに有る実家傍の喫茶店だと云えば、辻褄が合わなく為ってしまう。
一つの嘘を貫く為、更なる嘘を重ねてしまい、軈て、強い懊悩(おうのう)が心を蝕んで行く。それを知ってか知らずか、夕子は、伝一郎に対して抱く疑念を更にぶつけて行く。
「そのカフェーは、何と云う店名なんですか?」
「そ、それは上野の……ええと。」
疑惑を向けられた事により、彼の行動は、らしく無い物へと変化した。
対面から覗き込む夕子の瞳が、微かに笑っている。
「伝一郎様。一つ、御訊きしても宜しいですか?」
「な、何だい?」
「千代丸さんと云う御学友は、本当は居らっしゃらないんですよね?」
言葉を投げ掛けられた刹那、伝一郎の心臓は大きく脈を打ち、時を同じくして胃の腑が迫り上がる様な感覚に見舞われた。
引っ込んでいた汗が再び、顳顬(こめかみ)辺りから吹き出して来る。暫くの沈黙の後、伝一郎は苦笑いを浮かべ、徐に云った。
「どうして、判った?」
此れ以上の隠し立ては無駄だと踏んだのか、伝一郎は、嘘で有る事をあっさりと認めた。とは云え、何処に不備が有ったのか、皆目見当も付かない。その辺を夕子に訊ねてみると、何とも簡単明瞭な答えが返って来た。
「千代と仰有った後、取り繕い為さる様子が尋常では有りませんでしたもの。あの様に不自然に振舞われては、直ぐに見破られてしまいます。」
「そんなに不味かったか?」
「はい。私の様な男の方に不慣れな女でも、女が絡んだ嘘なら、大抵、見抜かれると思います。」
先立っての浄天眼と云い、改めて伝一郎は、夕子が持つ観察眼と読みの鋭さに、畏敬の念を持った。
「あの狼狽え振りから、千代と云うのは女の事だと思ったんです。」
「全く、君の推察力には兜を脱ぐよ。その通りだ。とは云え、二歳の子供だけどね。」
此れには、夕子の方が驚いた。
「に、二歳の女の子ですか?」
「ああ、東京に母方の親戚が居て、そこの末娘の名前なんだ。」
しかし、既に子供が居るとは口が裂けても云えない。伝一郎は、最後の一線を包隠する。