前章(四)〜惜別T〜-14
「此れなら、此の日傘も御売り出来ますし、此処から先も、詮索を御楽しみ頂けると存じますが。」
伝一郎と夕子は、此の手代の粋な計らいに頭に下げ、受け入れる事にした。
「やはり、その着物に此の色は、好く映えるな。」
濃色の着物と袴に、淡色の日傘と云う色彩の対比は、夕子の美しさを一層、際立たせる。手代の計らいも相成り、伝一郎は、何とも清々しい気分だ。
「本当に……有り難う御座います!大切にしますね。」
当初は、剰りに高価な代物故に、戸惑いを隠せない夕子で有ったが、伝一郎の真摯な態度に因って、漸く、喜びの笑顔に成った。
一方、艶やかさの増した彼女を見て喜ぶ伝一郎にとっては、実母、菊代を除けば正真正銘、異性に贈った初めての品で有り、それを斯様(かよう)に喜んで貰えたのなら、送った側としても冥利に尽きると云う物だ。
──夕子の艶やかさは、彼女の周りで繰り広げられる日常の光景さえ、色褪せてしまう程、際立っている。
「さて、それでは、街の散策を再開するとしよう。」
伝一郎は、眩し気な眼差しで夕子を見て、そう云った。
「では、何処に?」
夕子は、伝一郎を真っ直ぐに見詰めて微笑んだ。
「そうだな。芝居小屋や遊技場も好いだろうが、先ずは、アイスクリンでも食べたいな。」
「アイスクリン……ですか?」
「ああ。冷たくて美味しくて、特に家の千代……!」
「千代って、何方です?」
濶達さが災いし、伝一郎は口を滑らせてしまった。
「いや、その……千代丸!そう、千代丸と云う学友が居るんだ。」
「千代丸さん、ですか?随分、古風な御名前の方なんですね。」
「そ、そうなんだ。何でも実家が、由緒有る武家だったらしくてな。」
何とか、隠し仰せたと安堵した次の刹那、伝一郎の胸中に激しい嫌悪感が涌き上がる──。所詮、自分は心の何処かで菊代と子供達の事を、俗世から蔵匿(ぞうとく)したいと思っているのではないか、と。
──暫くの間だけだ!後、六年もすれば僕は社会に出る。その暁には、誰に憚る事無く家族と名乗れるんだ。
伝一郎は、強く自分に云い聞かせる。その厳然たる形相に、夕子は声を掛けようとして、思わず躊躇った。
「あ、あの……。」
か細い女の声に、伝一郎は我に返る。面前に、憂愁を帯びた顔が有った。
「ああ、すまない。何でも無いんだ。」
今は楽しむ時間で有る──。伝一郎は不安な顔を見せる夕子を気遣うと、家族の事を一先ず、胸内に仕舞い込んだ。
「此の街に、喫茶店かミルク・ホールは有るかな?そこなら、アイスクリンも置いて有ると思うんだが。」
「ミルク・ホールなら、駅の近くに有った筈ですが。本当に行くんですか?」
夕子が、不安気に訊ねる。
「何か、不味い事が有るのかな?」
「い、いえ。私も入った事が無いので、飽く迄、噂なんですが……。」
彼女の話では、そこは自薦、他薦を問わず、インテリゲンチャで有ろうとする年若い男達の溜まり場らしく、下は中等学校生から上は三十歳前後の医師見習いや教師、そして新聞記者等が、出入りしている場所だそうだ。
「──特に親方様は、新聞記者の方々を快く思ってらっしゃら無い様ですので。その他にも、御客が男の方ばかりと聞き及んでましたので、私も入った事は無いのです。」
夕子の説明を聞き、伝一郎は俄然、ミルク・ホールに出向きたいと云う衝動に駆られた。