リュネットは忘れない-3
やがて気が付いた時には、半分に割れた樽にしがみ付き、穏やかな川を流されていた。
随分と流されたのか、辺りは見た事もない木々の生い茂る深い緑の世界で、どこなのか見当もつかない。背の高い木々の合間から見える太陽の位置で、今は昼頃だと解っただけ。
樽の残骸は殆ど沈みかけており、リュネットはやっとの思いで川岸に這い上がった。
辺りに民家らしきものは見えず、鳥のさえずりや虫の羽音が聞こえるだけだ。しかし、柔らかい泥の上に大きな獣の足跡を見つけ、ギクリとした。
身を守るような武器も持っておらず、身体中が傷だらけで疲れ切っている。獰猛な獣に会ってしまったら、すぐに食われるだろう。
とにかく人里へ出なければと、疲れた身体に鞭打って歩いているうちに、巨大な樹木のような不思議な建物を見つけた。
苔と植物に覆われた建物は、どれも入り口が鉱石木で塞がれていたけれど、中央の建物だけは無事で、奥からは大勢の声が微かに聞こえる。
あまりよく聞こえないけれど、リュネットの知っている言語のようで安堵した。言葉が通じれば、助けを請いやすい。
しかし、戸口で入る許可を頼もうと声をあげようとした所で、リュネットは躊躇った。
はたして、ここにいる人たちが良い人なのか解らない。
他人様の建物へ無断で入るのは失礼だと思うが、恐ろしい盗賊に襲われたばかりの子どもは、悩んだ末に礼儀より保身をとった。
もし怖い人のようなら逃げようと、恐る恐る建物へ忍び込み……驚愕した。
長い通路の先には円形の広い部屋が広がり、半獣の姿をとった大勢の豹人が、ぐるりと壁際に立ち並んでいたからだ。
部屋の中央には、エメラルド・グリーンの液体を湛えた池のようなものが五つあり、その一つがボコボコと泡立っている。
そして、泡の中から一人の豹人の女性がゆっくりと浮かびあがってきたかと思うと、パチリと目を見開いた。
彼女が激しく咳き込みながら、淵石に掴まって泉から出ると、数人の豹人が駆け寄り、裸身で膝をつく彼女に布をかけてやった。背をさすったりして介抱し始める。
実際に見るのは初めてでも、これこそが魔族の泉だと、すぐに解った。
リュネットは家族だった魔族達から、泉について沢山聞いていた。
魔族の泉のある場所は様々で、アラクネや吸血鬼のように離れた地に何か所もその種の泉が存在する場合もあれば、一か所しかない種もあるという。
どの泉の魔族でも、その地で通じる言葉や一族のしきたりなど、基礎的な知識を持って生まれる。そして泉から出た直後は身体がよく動かないので、同胞が保護して衣類など必要なものを与えるそうだ。
だが、魔族の泉は人間の国が占拠している箇所もある。そこで生まれた魔族はすぐに殺されるか、捕えられて奴隷に扱われる運命だ。
だから、どの魔族も自分たちの泉を守るために武装を固めたり、あえて近場にある人間の国と協定を結ぶなど工夫をしている。
人間の国同士でも、しょっちゅう領土争いの戦をしているのだから、戦力に心強い魔族と協定を結びたがる国も多い。
そんな難しい話を、当時の幼いリュネットは完全に理解できぬまま、素直に聞いていただけだった。
でも、豹人がどこかに一つだけある自分たちの泉を厳重に守り、人間だけでなく他の魔族でさえも近づいたら容赦しないと公言しているという話は、しっかり覚えていた。
(逃げなくちゃ……殺される……)
そう思った時には既に遅かった、入り口のすぐ近くにいた豹人の青年が、踵を返したリュネットに素早く飛び掛って床に引き倒した。喉元に鋭い爪をつきつけられ、僅かな身動きすらできなくなる。
『侵入者だ!』
鋭い青年の怒鳴り声に、豹人達の視線が一斉にリュネットへ向けられた。
後から知ったが、この日はちょうど泉から新たな豹人が生まれる兆しがあったので、聖堂と呼ぶ泉のある部屋へ、ここの豹人が全員集まっていたのだ。
普段は居住区の高台に見張りがいて、近づいただけで殺されていたはずなのに、まずはその偶然がリュネットの命を救っていた。
しかし、聖地に近づいたどころか泉まで見たリュネットへ、豹人達は筆舌にしがたい怒りを向けた。
『ここまで入り込むなど、覚悟はできているだろうな! 一思いには殺さんぞ!』
『聖堂を穢すなんて、相応の報いを受けさせるべきよ!』
『八つ裂きにしても足りん!』
興奮して口々に叫ぶ豹人達へ、リュネットは蒼白になって唇を戦慄かせながら、恐怖で泣き喚きたいのを必死にこらえた。
こちらの失態で相手を激怒させてしまった時、泣いても事態を悪化させるだけだと、客商売の基本で教え込まれていた。
勝手に入ったリュネットが完全に悪いのだ。