14.エピローグ-4
「義兄さん、お久しぶりです」
英明は前に立ったその細身の男性に右手を差し出した。
「英明君、済まない、いきなり呼び出したりして」
その男性、真田裕也(59)は英明の手を握り返した。思いの外温かく、柔らかな感触だな、と英明は思った。
二人は琥珀色の照明に浮かび上がった窓際の丸いテーブルに向き合って座った。窓の下には街の夜景が広がっている。
「姉さんの葬儀の時以来ですね」
「そうだね。随分と時間が経ってしまった。君はもう校長先生なのか?」
英明は照れくさそうに笑った。
「僕はそんな器じゃありませんよ」
「でももう50過ぎたんだろ?」
「校長試験は受けてますけどね。まあ、決めるのは上ですから」
英明はコーヒーのカップを持ち上げた。
裕也は英明の目をじっと見つめながら言った。
「息子の誠也は……元気にしてるだろうか」
英明はカップをソーサーに戻し、穏やかな顔を前に座って心配そうな表情をしている裕也に向けた。
「ほんとはこちらから義兄さんにはご報告しなきゃいけなかったんですけど、彼は今、僕たち家族と一緒に暮らしているんです」
裕也の表情がふわりと和んだ。
「そうか……それは良かった。あいつも来年で40になるわけだし、ずっと一人で生活するのも寂しいだろうと私はずっと心配していたんだ。安心した」
裕也はふうとため息をつき、手元のカップを持ち上げた。
「結婚はしてないのか? ヤツは」カップをソーサーに戻して裕也は訊いた。「母親を亡くしてからすぐに結婚した女性とは別れてバツイチだってことは風の噂で聞いて知っていたが」
英明は数回瞬きをして、微笑みながら言った。「あれから結婚願望はないみたいです。僕たち家族の一員として暮らすのが最善だって本人も言ってました」
そうか、と言ってうつむき、裕也は独り言のようにつぶやいた。
「あの子がそのつもりなら、それでもいいか」
裕也は再びカップを持ち上げてコーヒーをすすった。
「義兄さんは、今は?」
「うん、初江と離婚してから医者に通ってアルコール依存症の治療に専念したが、ずいぶん長くかかったよ」裕也は自嘲気味に笑った。「実家の両親にも迷惑をかけた」
「お仕事は?」
「どうにか、細々とだけどね、実家の農業を継いでやってるよ」
「そうですか」
「じきに再婚もするつもりだ。遅まきだが……」
「それは良かった」
英明は微笑みを裕也に向けた。
裕也はテーブルの上で指を組んで静かに語り始めた。
「初江が亡くなった後、私はしばらく鬱状態だったんだ。喪失感が半端なくてね。抗うつ薬も処方してもらってた。依存症の次はうつ病。もともと心の弱い人間なんだろうね。その時もやっぱり一番の心配は息子の誠也のことだった。でもそんな状態の私にできることなど何もない。会いたいと思う気持ちも封印していた」
英明の胸が痛んだ。
「そうだったんですか……辛かったですね……連絡してくれれば僕らにできることもあったのに」
「いや、君たちに迷惑をかける訳にはいかない。元々そうやって初江とは離婚したわけだし」
裕也はじっと目を閉じてしばらくの間黙っていた。
「ずっと音信不通だったが、ある日偶然街で息子にばったりと会ったことがあるんだ。もう10年以上前のことだが……」
英明は躊躇いがちに訊いた。
「誠也は……何か言ってましたか? その時」
「いや、短い時間の立ち話で大した会話はしてない。もう長いこと会ってなかったし、私には負い目もあったし。それに何より共通の話題などほとんど無かったからね。でもあいつ、すっかり大人になっていて、頼もしいと思ったよ。予備校に勤めているって言ってたが」
「はい。今も」英明は一つうなずき、安心したように小さなため息をついた。
「その時、誠也はにこにこ笑いながら『父さんに食べさせてもらったリンゴの味は忘れてないよ』って言ってくれたんだ」裕也は目を潤ませた。「あの子に『父さん』と呼ばれるのは何年ぶりだろう、とその時思ったよ」
「リンゴ?」
裕也は昔を懐かしむような目で言った。
「父親らしいことは何一つしてやれなかったが、あの子がまだ3、4歳の頃だったか、高熱を出して寝込んでいた時にリンゴを剥いて食べさせたことがあるんだ」裕也は照れたように目をしばたたかせた。「赤い顔をして弱ってる息子を見てるとかわいそうで……その時私にできることはそれくらいしかなかった。それをあいつは覚えててくれたんだよ」
「なるほど、そういうわけだったのか」
英明は小さく何度もうなずき、コーヒーをすすった。