10.発覚-1
その日、8時頃校内の戸締まりを済ませて職員室に戻った英明は、初任三年目の数学教師秀島あかりが落ち込んだ様子で机にほおづえをついているのに気づいた。他の職員は全員帰宅した後で、彼女の他には誰も残っていない。
「一人で遅くまで仕事してたの? がんばるね」
英明はその机に歩み寄った。
「教頭先生……」
あかりは顔を上げた。
「なに、どうしたの? 何か悩みでも?」
英明は隣の机の椅子を引いて座った。
「あたし、来年の3月までしかここに居られないんですね」
はあっと遠慮なくため息をついたあかりは、寂しそうな目で英明を見た。
「いきなりどうしたの?」
「初任は三年で転勤、なんて誰が決めたんでしょうね」
あかりはまたため息をついた。
「この学校から離れたくないってこと? そんなに情が移ったんだ、生徒たちに」
「まあ、順調に一年の時から受け持っている生徒たちですから、可愛いと言えば可愛いんですけど」
「そういうことじゃないの?」
「だって、あたしと同時にここを出て行くわけでしょ? あたしがまだここに居たいっていう理由は別にあるんです」
あかりはこの三年間で授業力もクラス運営のやり方も随分上達した。同じ数学教師である英明はこの女性新米教師が一人前の教師としてやっていけるように腐心していた。授業の研究会に備えていろんな助言もしたし、道徳の授業に役立つような資料も準備してやった。
「教頭先生には本当にいろいろとお世話になってます」
「何だよ、またいきなり」
少し上目遣いに、あかりは向かい合っている教頭英明の目を黙ったままじっと見つめた。
英明は少し動揺して身を引いた。
「さあ、もう遅いからお帰り。バス停まで送ってあげるよ」
英明が椅子を立った時、あかりはその腕をぎゅっと掴んだ。
えっ? と驚いてあかりを見下ろした英明は、あかりの瞳が潤んで、今にも涙がこぼれそうになっているのに気づいた。
「秀島さん、ど、どうしたの? 何か辛いことが?」
あかりは英明の目をじっと見つめた。
「あたし、増岡先生のことが好きなんです」
「ええっ?!」
「去年ぐらいからずっと気になってました」
「そ、それって……」
あかりはうつむいて、蚊の鳴くような声で言った。
「だ、抱いて欲しい……」
英明は真っ赤になって早口で言った。
「と、とにかく送るから、早く荷物を準備して、」そこまで言った時、あかりは立ち上がって英明に抱きつき、強引に唇を重ねてきた。
英明は最高に焦ってすぐにあかりの身体を引き離した。
昂奮状態のあかりをバスに無理矢理乗せた後、英明は学校に戻って駐車場に駐めていた自分の車の横で大きく深呼吸をして頭をガリガリと掻いた。
「まいったな……」
いつもより早い時間だった。
「いいか、このまま今日は早く帰ろう」
そう独りごちて英明は車に乗り込み、エンジンを始動させた。
英明の勤める学校は隣接したS市にある。学校を出ていつものハイウェイに乗り、20分ばかり車を走らせた所の交差点で、目の前の信号が赤に変わったので英明はブレーキをゆっくりと踏み込んで車を停めた。その界隈は民家も少なく、畑が広がる少し寂しげな所だったが、その交差点付近は巷で『ピンクエリア』とは呼ばれ、これ見よがしに数軒のラブホテルが派手なネオンサインの看板とともに立ち並んでいた。
その一軒のホテルの真ん中あたりのガレージから一台の軽ワゴン車が出て来るのを、英明は興味なさげな目で見やった。
「えっ?」
小さく叫んで英明は目を凝らした。
パールレッドの車体のその車の後部座席に、女が一人座っていた。サングラスを掛け、見覚えのある薄いピンクのタートルネックのセーターを身につけている。運転席の窓には濃いスモークのフィルムが貼られていて誰が運転しているのか特定はできなかったが、その人物が誰なのかは英明には解っていた。
その車が交差点の脇道に出てきた時、丁度信号が変わったので、英明は慌てたように車を急発進させた。