8.再燃-1
英明と美穂の夫婦に授けられたその一人娘の真琴は4歳になっていた。
とある十月の朝、幼稚園に娘を送り届けた帰り、美穂は自宅のすぐそばにある八百屋の前で足を止めた。短い秋という季節の丁度真ん中あたり、「十月」という響きが美穂は大好きだった。ちょっと暑かったり、不意に朝方寒さを感じたりするその予測できない気候の気まぐれさと、空の色が日に日に深くなっていくのを眺めて、時間が確実に、でも落ち着いた足取りで進んでいく気分を味わえるのが好きだった。
――そしてこの月はある人の誕生月だった。
八百屋の店先には赤く色づいたリンゴが三個ずつ小分けされ、竹製のざるに盛られていた。
「リンゴのうまい季節だよ、奥さん」奥から店主のしゃがれ声が聞こえた。「どうだい? そいつぁ『陽光』っつって、出荷時期が短けえんだ。十一月までしか出てねえよ」
「もらっちゃおうかな」
美穂は近づいてきたその初老の男に笑顔を向けて、バッグから財布を取り出した。
「毎度っ」店主の威勢の良い声に軽く会釈をして、リンゴの入った袋を左手に持ち替え、振り向いた美穂の前に一人のジーンズ姿のラフな格好をした男性が立っていた。
誠也だった。
「こんにちは、美穂さん」
彼は恥ずかしげに笑った。
「せ、誠也君……」
美穂は彼の顔を見上げてしばらく口をぽかんと開けていた。
「ごめんなさい、突然声掛けちゃって」
誠也は頭を掻いた。
「リンゴ、」美穂はそう言って、たった今買い求めた赤い実を袋から取り出し、誠也に差し出した。「もうすぐお誕生日だから、はい」
誠也は思いっきり困ったような、驚いたような、何とも形容しがたい表情になった。「あ、ありがとうございます」
「なんであんな所をうろついてたの? 誠也君」
美穂の自宅のソファに恐縮したように座って、誠也は淹れ立てのコーヒーのカップを持ち上げた。
「今日は休みなんです、予備校」
「予備校?」
美穂もセンターテーブルを挟んで誠也と向かい合った。
「あちちっ!」
誠也は言って、思わず顔をしかめた。
「自分が猫舌って知ってるくせに、そんなに慌てて飲もうとしなくてもいいでしょ?」
美穂は小さく吹き出した。
誠也は頭を掻きながらカップをテーブルに戻した。
「講師をやってるんです。なかなか学校の先生にはなれないですね。採用試験落ちまくり」
誠也は恥ずかしげにそう言って額をぽりぽりと掻いた。
「去年の採用試験もだめだったんで、もう諦めてバイトで勤めてた予備校に秋から正社員として雇ってもらうようになったんです」
「そうだったの。今年のお正月にはそんなこと言ってなかったのに」剥いて切り分けたリンゴの乗った皿を誠也の方に寄せて、美穂は言った。「食べて」
「ありがとうございます」
誠也はぺこりと頭を下げた。
突然に妙なタイミングで再会した誠也は、ずっと丁寧な言葉遣いで、態度もいつも正月に増岡家で会う時と同じように他人行儀だった。しかし美穂の身体はあの時と同じように反応していた。鼓動が喉元で聞こえ、身体の中心が熱くなり始めていた。